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嘉永4(1851)年に薩摩藩主となった島津斉彬は、軍備強化だけでなく殖産興業に取組む近代化政策を行い、磯に築いた工場群に「集成館」と名付けた。仙巌園入口付近にその基礎部分が遺る反射炉跡は、斉彬時代の集成館事業の数少ない遺構。反射炉は大量の銑鉄を溶かして鋳型に流しこみ、大砲の砲身を造る施設。度重なる失敗を重ね、現在目にすることができるのは、安政4(1857)年に完成した2号炉の基礎部分。薩英戦争の際、集成館は焼失し、反射炉もその後撤去された。
反射炉跡
反射炉
鉄製150ポンド砲