西暦 | 月日 | 年齢 | 主な記事 |
1180 | 10月21日 | 22 | 黄瀬川の対面、はじめて歴史上に登場。 |
1181 | 7月20日 | 23 | 家人としての処遇に不満、頼朝これを叱責。 |
1184 ? | 1月20日 | 26 | 頼朝の代官として義仲を討つ。為久を討ち取る。 |
| 2月7日 | | 一谷の合戦で大勝、平氏は四国へ敗退。 |
| 8月6日 | | 従五位下、検非違使庁の判官。無断任官に頼朝激怒。 |
| 8月18日 | | 範頼、平氏追討使となり、西海に赴く。義経起用されず。 |
| 8月26日 | | 義経、平氏の残党狩りに従事。 |
| 9月14日 | | 正室(河越重頼の女)上格。頼朝のはからいによる。 |
1185 | 1月27日 | 27 | 範頼苦戦。船舶・食糧に事欠き、厭戦気分拡がる。 |
| 2月16日 | | 止むなく頼朝、義経起用。四国へ進撃を命じる。 |
| 2月18日 | | 荒天を冒し、四国に渡る。軍監梶原景時と逆櫓論争。 |
| 2月21日 | | 屋島の行宮攻略。平氏、海上に漂う。 |
| 3月24日 | | 壇ノ浦決戦に勝利。範頼軍は陸上から支援。 |
| 4月15日 | | 無断任官禁令。破る者は墨俣河以東に入るととを禁じた。入る者は斬罪。 |
| 5月4日 | | 義経自専多しとして、頼朝に勘発される。 |
| 5月7日 | | 義経、起誓文を呈上。その怒りを解とうとする。 |
| 5月15日 | | 義経、平宗盛、清宗父子を連行するも、鎌倉入部を許されず。 |
| 5月24日 | | 腰越にて款状(腰越状)を提出。返書はなし。 |
| 6月9日 | | 義経、恨みを抱いて帰洛。路次にて宗盛父子を誅殺。 |
| 6月13日 | | 義経の所領24ヶ所没収される。決定的対立。 |
| 8月29日 | | 義経、伊予守。頼朝の推挙による。取り消し、間に合わず。 |
| 10月9日 | | 土佐坊昌俊83騎をもって、義経暗殺に進発。 |
| 10月17日 | | 昌俊等、六條室町の義経亭を襲うも敗北。 |
| 10月18日 | | 義経、後白河上皇より、頼朝追討の院宣を下される。 |
| 10月22日 | | 頼朝これを知るも動揺せず。 |
| 10月26日 | | 鞍馬寺に潜伏した昌俊等、探し出され梟首 |
| 11/l | | 頼朝、黄瀬川に進出。馬匹・食糧を準備。 |
| 1l/3 | | 義経、四国に赴く。その勢200余騎。 |
| 11月5日 | | 関東勢入洛。頼朝の怒りを朝廷に伝える。 |
| 11月6日 | | 義経、大物浦にて乗船漂倒。従う者、弁慶・静等4名。後白河上皇、さきの院宣を撤回、頼朝議髄討の院を下す。上皇の権謀術数。皇権回復のため。 |
| 11月7日 | | 静、吉野山中で捕えられる。 |
1187 | 2月10日 | 29 | 義経の一行、平泉に到着。藤原秀衡の庇護を受ける。 * |
| 10月5日 | | 河越重頼、義経の縁座に依り誅。但し所領は安堵し、「後室(比企禅尼の二女)の尼の命に従うべし」と下し文。 |
| 10月29日 | | 秀衡没。遺言は「義経を大将軍として国務せしむべし。」 |
1189 | 4月30日 | 31 | 秀衡嫡男泰衡は、二年余り義経を支えたが、家の安泰の為に義経を攻撃。義経、妻子を殺害後自裁。衣川の館に死す。 |