古称金洗沢ハ此ノ池辺ナリ文永八年六月天大イニ旱ス。幕府、良観房忍性ニ命ジテ雨請ノ修法ヲナサシム顕ナシ、時ニ日蓮此ノ池畔ニ雨ヲ祈ル忽チ甘雨地ヲ霑オストイウ世ニ伝ヘテ、日蓮上人祈雨ノ霊跡トナスハ此ノ処ナリ。
昭和三十一年三月建 鎌倉友青會
日蓮上人略年譜
西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
1222 | 承久4 | 1 | 安房国長狭郡東条郷小湊の漁夫の子として生まれる。 |
1233 | 天福元 | 12 | 安房清澄山で仏道に入門。 |
1237 | 嘉禎3 | 16 | 出家し、是聖坊蓮長と号す。 |
1239 | 延応元 | 18 | 鎌倉遊学。浄土宗・禅宗を学ぶ。後鳥羽上皇崩御。三浦義村没 |
1242 | 仁治3 | 21 | 清澄山に帰り、次いで比叡山に研学。 |
1251 | 建長3 | 30 | 諸山・諸寺を歴訪し研学。 北条泰時没。順徳上皇崩御 |
1254 | 建長5 | 32 | 清澄山に戻り日蓮宗を開き、鎌倉の松葉ヶ谷に小さな草庵を建て、街頭に出て、道行く人々に辻説法を行い、法華経の教えを熱心に説く。 |
1257 | 建長6 | 33 | 5/18、8/1、9/1の三度の地震で鎌倉焦土と化す。 |
1260 | 文応元 | 36 | 「立正安国論」を著して前執権北条時頼に建白。 |
1261 | 弘長元 | 39 | 幕府は日蓮上人を捕らえて伊豆に配流する。 |
1263 | 弘長3 | 40 | 伊豆流罪を解かれて鎌倉に戻った日蓮上人は、布教活動を再開。 |
1264 | 文永元 | 42 | 11/11 故郷の東條原にて念仏信者により弟子一人殺害される。 |
1268 | 文永5 | 43 | 蒙古より使者が来て国交を要求される出来事あり。 |
1269 | 文永6 | 47 | 元の進攻防ぐには、他宗を排し、法華経を興隆すべきと説く。 |
1271 | 文永8 | 48 | 再び幕府は日蓮上人を捕らえ、処刑寸前に死罪を免除され佐渡に配流。 |
1272 | 文永9 | 50 | 北条時輔の乱。京都、鎌倉に兵乱発生。 |
1274 | 文永11 | 51 | 赦免によって佐渡から戻り、鎌倉の夷堂に滞在した後、甲斐国の身延山に入って久遠寺を建立し布教を再開する。 |
1281 | 弘安4 | 60 | 2度にわたる蒙古来襲があり、日蓮上人の予言が的中。 |
1282 | 弘安5 | 61 | 日蓮上人は武蔵国池上で病により60才で激動の生涯を閉じる。 |
〔参考〕
文永八年(1271)六月、日照り続きで雨が少しも降らなかった。幕府は雨乞いを行ったが効果 がなかった。その時、日蓮がこの池のほとりで雨乞いの祈りをしたら、たちまち恵みの雨が降り、 地面をうるおわせたという、日蓮上人祈雨の霊場と言われている所。