城ハ永正九年北條早雲ノ築ク所ニ係リ、其ノ同族之ニ居ス。天文中綱成代リ入ル。綱成實ハ駿州今川氏ノ宗徒福島氏ノ孤子タリ。早雲ノ長子氏綱ニ養ハレテ其ノ氏北條ヲ冒シ、又其ノ女ヲ得テ妻トシ、且此ノ城ヲ與ヘラル。爾來子孫氏繁氏勝之ヲ相嗣ク。小田原北條氏滅亡ノ後漸ク廃城トナル。此地鎌倉藤澤ノ際高丘ニ在ツテ驛路ニ當リ、四方通塞ノ要地タリ。而シテ勇武絶倫ノ将之レニ據ル。其ノ當年四隣ヲ風靡セシ、彼ノ黄八幡ノ旗風モ偲バルルニアラズヤ。
大正十五年一月 鎌倉同人會建之
鎌倉同人会について
近代日本に於ける外交の父と言われた伯爵陸奥宗光の嫡男広吉(1869-1942)は病身を養うため大正2年、鎌倉に移住、この地で75年の生涯を終えました。彼は鎌倉をこよなく愛し鎌倉同人会を結成、史都を世に広め碑の建立を行いました。これはそのうちのひとつです。
他に盛久頸座(青年団の碑の脇にあります)飢渇畠(六地蔵後方)、常栄寺の裏山に木曽義高首塚の碑があります。
陸奥広吉は、鎌倉女学院の創立者で 女子高等教育に尽力、そればかりか中国留学生のために僑日共済会を設立、日中友好のために働きました。陸奥広吉の本務は外交官。
その夫人 エセル(1868-1897)は英国人で日本名はイソ(磯)。彼女は由比ヶ浜の夕景を愛しました。その最後の言葉は「見て、夕日よ。なんて美しいんでしょう!」
〔参考〕
永正九年(1512)北條早雲が三浦道寸を攻めるために築城し、相模第一の堅城と称され上杉朝興、里見義弘、上杉謙信等がこの城を攻めても攻略出来ず、武田信玄もこの城を攻めることを避けたと言われている。現在は、清泉女学院が建っているが、城の最高部諏訪壇と呼んでいたところ(標高80m)はそのまま保存されている。玉縄城の要害は、本丸東の諏訪壇を残すのみ。