文治元年(皇紀一八四五年) 五月、源義経、朝敵ヲ平ラゲ、降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ、頼朝ノ不審ヲ蒙リ、鎌倉二入ルコトヲ許サレズ。腰越ノ駅二滞在シ、鬱憤ノ餘、因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ款状ヲ呈セシコト、東鑑ニ見ユ。世ニ言フ腰越状ハ即チコレニシテ、其ノ下書ト傳ヘラルルモノ滿福寺二存ス。
昭和十六年三月建 鎌倉市青年團
「語釈」 内府=内大臣の唐名(中国名)。不審=疑惑―――義経は頼朝の命令に従わず、官位を受け従五位下伊予守となり、検非違使に任ぜられたので、武家政権の敵対者として疑われました。駅=諸道30里毎に置かれ、往来人のために継立ての人馬を備え、宿泊・食料補給などに応じた機関。款状(くわじゃう)=嘆願状。文治元年~(1185年3月24日)、平家一門は、長門国壇ノ浦で減亡。義経は、生虜った平宗盛・清宗父子を引き連れて鎌倉に向いました。しかし、頼朝はかれを酒匂の駅に止め、鎌倉入部を許しませんでした。
〔参考〕
壇ノ浦で平家一門を駆逐し、平宗盛以下の捕虜を引き連れて鎌倉に凱旋しようとした義経だったが、酒匂の宿舎に逗留していた時、鎌倉入りを頼朝に拒否されてしまう。納得できない義経は、腰越ノ浦までやって来て、心情を暴露する書状(腰越状)を弁慶に書かせます。しかし頼朝の心を和ませることができず、落胆しつつ京都へと戻って行く。その後、頼朝から領地を取り上げられて追討されてしまいます。