• 74 義経宿陣之趾 よしつねしゅくじんのし


碑の説明

文治(ぶんじ)元年(皇紀(こうき)一八四五年) 五月、源義経(みなもとのよしつね)(ちょう)(てき)(たい)ラゲ、降将前内府(こうししょうさきのだいふ)平宗(たいらのむね)(もり)捕虜(ほりょ)トシテ(あい)()凱旋(がいせん)セシニ、(より)(とも)不審(ふしん)(こうむ)リ、鎌倉(かまくら)()ルコトヲ(ゆる)サレズ。腰越(こしごえ)(うまや)滞在(たいざい)シ、鬱憤(うっぷん)(あまり)因幡前司(いなばのぜんし)大江(おおえ)廣元(ひろもと)()シテ一通(いっつう)款状(くわじょう)(てい)セシコト、東鑑(あずまかがみ)()ユ。()()腰越状(こしごえじょう)(すなわ)チコレニシテ、()下書(したがき)(つた)ヘラルルモノ滿福寺(まんふくじ)(そん)ス。

昭和十六年三月建  鎌倉市青年團



「語釈」 内府(ないふ)内大臣(ないだいじん)唐名(とうめい)(中国名)。不審=疑惑―――義経は頼朝の命令に従わず、官位を受け(じゅ)五位下(ごいげ)伊予(いよの)(かみ)となり、検非違使(けびいし)に任ぜられたので、武家政権の敵対者として疑われました。駅=諸道30里毎に置かれ、往来人のために継立ての人馬を備え、宿泊・食料補給などに応じた機関。款状(くわじゃう)=嘆願状(たんがんじょう)文治(ぶんじ)元年~(1185年3月24日)、平家一門は、長門国(ながとのくに)壇ノ浦(だんのうら)で減亡。義経は、生虜(いけど)った平宗盛(たいらのむねもり)清宗(きよむね)父子を引き連れて鎌倉に向いました。しかし、頼朝はかれを酒匂(さかわ)の駅に(とど)め、鎌倉入部を許しませんでした。


〔参考〕

壇ノ浦で平家一門を駆逐し、平宗盛以下の捕虜を引き連れて鎌倉に凱旋しようとした義経だったが、酒匂の宿舎に逗留していた時、鎌倉入りを頼朝に拒否されてしまう。納得できない義経は、腰越ノ浦までやって来て、心情を暴露する書状(腰越状)を弁慶に書かせます。しかし頼朝の心を和ませることができず、落胆しつつ京都へと戻って行く。その後、頼朝から領地を取り上げられて追討されてしまいます。


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