• 1 段 葛 だんかづら


碑の説明

段葛(だんかづら)一二置石(おきいし)称ス(しょう)寿永(じゅえい)元年三月、頼朝(よりとも)其ノ(その)夫人(ふじん)政子(まさこ)平産(へいさん)祈祷(きとう)()メ、鶴岡(つるおか)社頭(しゃとう)ヨリ由比(ゆい)海浜(かいひん)大鳥居(おおとりい)辺二(あたり )(わた)リテ(これ)(きず)ク。()土石(どせき)ハ、北条(ほうじょう)時政(ときまさ)(はじ)メ、源家(げんけ)諸将(しょしょう)(これ)運搬(うんぱん)(したが)ヘル(ところ)ノモノナリ。明治(めいじ)初年(しょねん)(いた)リ、()(とり)()以南(いなん)()(かたち)(うしな)ヘリ。

大正七年三月建之 鎌倉町青年會



段葛(だんかづら)は段上の土の崩れを防ぐために置かれた石のことです。碑文は置石(おきいし)としてあります。鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』は、この個所を次のように記しています。 「寿永(じゅえい)(がん)(1182)年3月15日 鶴岳(つるたけ)社頭(しゃがしら)由比浦(ゆひのうら)に至るまで、曲横(きょくおう)(なお)して、詣往(けいおう)の道を造る。(これ)日来(ひごろ) 御素願(おすねがい)たりといへども自然(しぜん)()(わた)る。しかるに、御台所御懐孕(みだいどころごかいよう)御祈(おいの)によりて、ことさらにこの儀を始めらるるなり。武衛(ぶえい)(頼朝(よりとも))自らこれを沙汰せしめ給ふ。よって北條(ほうじょう)殿(どの)(時政(ときまさ))已下(いげ)(以下)おのおの土石を運ばると云々(うんぬん)。」と、妻の安産を祈り、 頼朝は先頭に立って土石を運び、(しゅうと)時政(ときまさ)以下の諸将が協力したとあります。8月12日、政子は男子を産みますが、幼名(ようみょう)万寿(まんじゅ)、後の頼家です。汝に源家の将来を頼むとの思いを込めた命名ですが、後年、外祖父(そとそふ)時政(ときまさ)の放った刺客によって、頼家(よりいえ)は修禅寺に於て殺害されました。この年の6月、頼朝(よりとも)は伊豆の流人の愛人(かめ)(まえ)を、密かに鎌倉に呼び寄せています。「11月、政子(まさこ)はそのことを知り、「御台所(おだいどころ)(政子(まさこ))(こと)(いきどお)らしめ(たま)ふ。これ北條(ほうじょう)殿(どの)室家(しついえ)牧御方(まきのおかた)密々(みつみつ)申さ(もう )しめ(たま)ふの(ゆえ)なり。よって今日(こんにち)(まき)三郎(さぶろう)宗親(むねちか)(おお)せて、広綱(ひろつな)(いえ)((かめ)の前の隠れ家)を破却し、(すこぶ)恥辱(ちじょく)に及ぶ。広綱(ひろつな)、かの人を伴ひ奉り、希有(けう)にして(のが)れ出で、大多和(おおたわ)五郎(ごろう)義久(よしひさ)鐙摺(あぶずり)の宅に到ると云々。」と『吾妻鏡』は記しています。頼朝(よりとも)政子(まさこ)も既に歴史上の人物なので、北條(ほうじょう)()の史官は何ら(はばか)ることなく、英雄(えいゆう)烈婦(れっぷ)凡人(ぼんじん)(いき)にまで引き下げています。愛人騒動の後日譚は割愛します。


〔参考〕

鎌倉駅の広場を東にぬけると一本の広い道が南北に通っている、これが若宮大路です。これは京の都の朱雀大路になぞらえて寿永元年(1182)3月に築いたといわれ、若宮大路の二の鳥居から三の鳥居の十字路までが段葛の道です。二の鳥居のところでは約5mある道幅が三の鳥居では約3mと、遠近法を採用されています。(防衛上からとも言われている) 4月になると桜並木に美しく花がつき、夜にはその桜の花の下に雪洞に灯がともり、5月には両側は赤いつつじの道とかわります。


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