• 2 宇津宮辻幕府舊蹟 うつのみやづしばくふきゅうせき


碑の説明

鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)(はじ)大蔵(おおくら)()リシガ、嘉禄(かろく)元年、政子(まさこ)(こう)ジテヨリ(これ)()(うつ)サントノ議起(ぎおこ)リ、(すなわ)時房(ときふさ)泰時(やすとき)(とう)巡検(じゅんけん)評議(ひょうぎ)(すえ)同年(うねん)十一月、()()造営(ぞうえい)、十二月、将軍(しょうぐん)藤原(ふじわらの)頼経(よりつね)(ここ)(うつ)(じゅう)ス。爾後(じご)嘉禎二年(かていにねん)頼経(よりつね)(ふたた)(これ)若宮(わかみや)大路(おおじ)(うつ)セルマデ、天下(てんか)政令(せいれい)(ここ)()ヅルモノ(およ)ソ十二年ナリ。

大正十年三月建之  鎌倉町青年會



実朝(さねとも)横死(おうし)のあと、北條(ほうじょう)()摂家(せっけ)から将軍を迎え、木偶(でく)将軍(しょうぐん)としました。頼経(よりつね)は、頼朝(よりとも)の妹の孫娘の子です。後に政子の命により、頼家(よりいえ)の遺子と結婚します。彼女は竹御所(たけごしょ)と呼ばれ、頼経(よりつね)より15歳年長、死産の後に死にました。行年32。政略結婚の犠牲者です。そうは思っていなかったようですが。頼山陽(らいさんよう)は『日本(にほん)政記(せいき)』の中で、頼経(よりつね)以降の歴代将軍を北條氏の操り人形にすぎないと評しています。その実は、木偶(もくぐう)()つるがごとし。(ゆえ)(やや)知覚(ちかく)運動(うんどう)すれば、則ち之を去り、更に知覚運動せざるを立てて之に代る。之北條(ほうじょう)()本謀(ほんはかりごと)にして九世(きゅうせい)(のこ)せし所以(ゆえん)のものなり。


鎌倉幕府歴代将軍リスト

 - 将軍名就任退任  在位期間
初代源 頼朝(よりとも)46531192年7月12日~1199年1月13日
2代源 頼家(よりいえ)21221202年7月23日~1203年9月7日
3代源 実朝(さねとも)12281203年9月7日~1219年1月27日
4代九条頼経(よりつね) 9271226年1月27日~1244年4月28日
5代九条頼嗣(よりつぐ) 6141244年4月28日~1252年3月21日
6代宗尊親王(むねたか)11251252年4月1日~1266年7月4日
7代惟康親王(これやす) 3261266年7月24日~1289年9月14日
8代久明親王(ひさあき)14331289年10月9日~1308年8月4日
9代守邦親王(もりくに) 7321308年8月27日~1333年5月21日

〔参考〕

嘉禄元年(1225)7月11日、尼将軍の政子が69歳で亡くなりました。幕府は心機一転を図るため、二の鳥居の東側に移り、北條泰時が権威を発揮した所です。12年後の嘉禎2年(1236)三たび幕府は若宮大路に移転しています。


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