• 4 若宮大路幕府旧蹟  わかみやおおじばくふきゅうせき


碑の説明

鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)(はじ)大蔵(おおくら)()リシガ、嘉禄(かろく)元年(がんねん)政子(まさこ)(こう)ズルト(とも)二、将軍(しょうぐん)藤原(ふじわら)頼経(よりつね)(これ)宇都宮(うつのみや)(つじ)(うつ)シ、(のち)十一年ニシテ嘉禎(かてい)二年、(ふたたび)(この)()(うつ)ス。爾来(いらい)九十八年、頼経(よりつね)以後(いご)六代(ろくだい)将軍(しょうぐん)相繼(あいつ)ギテ(まつりごと)(ここ)()ケリ。元弘(げんこう)三年、新田(にった)義貞(よしさだ)鎌倉(かまくら)亂入(らんにゅう)スルニ(およ)ビテ廢絶(はいぜつ)セリ。

大正七年三月建之 鎌倉町青年會



第三の幕府跡は、二の鳥居近くにあり、民家が密集しています。近くには故大仏次郎邸があります。頼朝(よりとも)政子(まさこ)夫妻は二男二女をもうけましたが、すべて夭折(ようせつ)しました。長女(おお)(ひめ)は、彼女の(むこ)((じつ)は人質)とされた木曽(きそ)義高(よしたか)が、父の命により謀殺(ぼうさつ)されて以来、心に痛手を受け、不食の病いで十九歳で死にました。嫡男頼家(よりいえ)は、伊豆修禅寺に幽閉(ゆうへい)の末、祖父時政(ときまさ)の放った刺客に殺害されました。行年23。次女三幡(みつはた)は、高熱を発して不審な死を遂げます。時に13(さい)後鳥羽(ごとば)上皇(じょうこう)の妃の一人となる予定であった人物です。実朝(さねとも)(おい)公暁(くぎょう)の暗殺する所となりました。行年28。実朝(さねとも)(あね)三幡(みつはた)にかかわる碑が、国大(こくだい)付属中(ふぞくちゅう)校門(こうもん)(ちか)くにあります。


〔参考〕

嘉禎2年(1236)から元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡まで、約100年にわたり、北條氏が執権政治を執り行った場所です。


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