堀河館二義経ヲ夜襲シ利アラズシテ死セシ者、是土佐坊昌俊ナリ。「東鑑」文治元年十月ノ條二『此ノ追討ノ事人々多ク以テ辭退ノ氣アルノ處、昌俊進ンデ領状申スノ間、殊二御感ヲ蒙ル。已二進發ノ期二及ンデ御前二参リ、老母竝二嬰兒等下野ノ國ニアリ、憐愍ヲ加ヘシメ給フベキノ由、之ヲ申スト云々』トアリ。其ノ一度去ツテ又還ラザル悲壮ノ覺悟ヲ以テ、門出ナシケン此ノ壮士ガ邸ハ、即チ此ノ地二在リタルナリ。
大正十四年三月建之 鎌倉町青年會
文治元年3月24日(1185)、平家が壇の浦で滅亡した直後から、頼朝と義経の間柄は険悪なものとなります。腰越状も空しく義経は帰洛し、頼朝打倒を図ります。一方頼朝は、土佐坊以下83騎の刺客を入洛させます。昌俊等の襲撃はならず撃退され、かれは鞍馬山に潜伏中捕らえられ誅殺されました。
〔参考〕
文治元年(1184)10月に頼朝は義経を誅伐する群議を行ったが、義経への同情、武力、肉親を討つことのたじろいなどで、名だたる武将はいずれもこの役を受けようとしなかった。立身出世の機をうかがっていた昌俊はこの役を申しで、下野国(栃木県)に居住している母、子供の行く末を頼朝に依頼し9日に出発し、17日に六条室町亭を急襲したが失敗。26日に鞍馬の山奥で捕われ、六条河原で斬られてしまいました。