• 6 青砥藤綱旧跡  あおとふじつなきゅうせき


碑の説明

太平記(たいへいき)」ニ()レバ、藤綱(ふじづな)北条(ほうじょう)時宗(ときむね)貞時(ただとき)二代(にだい)(つか)ヘテ引付(ひきつけ)(しゅう)(つらな)リシ(ひと)ナルガ、(かつ)(よる)()出仕(しゅっし)(さい)(あやま)ツテ(ぜに)十文(じゅうもん)滑川(なめりかわ)(おとし)シ、五十文(ごじゅうもん)續松(ついまつ)(あがな)水中(すいちゅう)()ラシテ(ぜに)(さが)し、(つい)(これ)()タリ。(とき)(ひと)(びと)小利(しょうり)大損(おおぞん)(かな)(これ)(あざけ)ル。藤綱(ふじづな)ハ『十文(じゅうもん)(しょう)ナリト(いえども)(これ)(しつ)ヘバ天下(てんか)()(そん)ゼン、五十文(ごじゅうもん)(われ)(そん)ナリト(いえども)亦人(またひと)(えき)ス』(むね)(さと)セシトイフ。(すなわち)(この)物語(ものがたり)()(あたり)(おい)(えん)ゼラレシモノナラント(つた)ヘラル。

昭和十三年三月建之  鎌倉町青年團



「太平記」は足利氏を中心にした史書。引付衆(ひきつけしゅう)評定衆(ひょうじょうしゅう)を補佐し、訴訟を審理し、庶務を処理、また政所(まんどころ)の記録書を注記する役職。評定衆(ひょうじょうしゅう)は執権の補佐官で嘉禄(かろく)(がん)(1125)(ねん)政子(まさこ)死後(しご)執権(しっけん)泰時(やすとき)が設置したものです。泰時(やすとき)は自分の政治が誤りなきようにと、これをおいたのです。政所(まんどころ)とは、政務、財政の訴訟を司った役所。はじめは「公文所」(くもんじょ)といいました。「嘗テ」は「かつて」とよみ、以前、昔の意。「墜シ」は「おとし」とよむ。「続松」は「ついまつ」とよむ。「購ヒ」は「あがなひ」とよむ。「竟ニ」は「ついに」。「之」は「これ」とよむ。代名詞です。ついでながら「之」という字は「の」とよむ。「これ」とよむ。「ゆく」とよむ。行くとゆう動詞にもなる。「し」というよみ方もあります。雖は「いえども」とよむ。逆接接続の助詞。亦は「また」。「旨」は「むね」とよみ、趣旨。「訓セシ」は「さとせし」とよむ。教えさとすの意。「此辺」は「このあたり」とよむ。「演ゼラレ」は行われの意です。


〔参考〕

小町大路に近い宝戒寺の裏側の流れに架かっている東勝寺橋で藤綱が銭十文を落としてしまった。近くの店で五十文の続松を買い求め、水中を照らし、十文の銭を見つけ出すことが出来ましたが、「小利の大損かな」と笑った人たちに、「天下の貨幣は大切」と諭した話。このエピソードは戦前の国定教科書に絵入りで載せられたが架空の話と言われている。


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