太平記」ニ據レバ、藤綱ハ北条時宗、貞時ノ二代ニ仕ヘテ引付衆ニ列リシ人ナルガ、嘗テ夜ニ入リ出仕ノ際、誤ツテ錢十文ヲ滑川ニ墜シ、五十文ノ續松ヲ購ヒ水中ヲ照ラシテ錢ヲ捜し、竟ニ之ヲ得タリ。時ニ人々、小利大損哉ト之ヲ嘲ル。藤綱ハ『十文ハ小ナリト雖之ヲ失ヘバ天下ノ貨ヲ損ゼン、五十文ハ我ニ損ナリト雖亦人ニ益ス』旨ヲ訓セシトイフ。即チ其ノ物語ハ此ノ邊ニ於テ演ゼラレシモノナラント傳ヘラル。
昭和十三年三月建之 鎌倉町青年團
「太平記」は足利氏を中心にした史書。引付衆は評定衆を補佐し、訴訟を審理し、庶務を処理、また政所(まんどころ)の記録書を注記する役職。評定衆は執権の補佐官で嘉禄元(1125)年政子の死後執権泰時が設置したものです。泰時は自分の政治が誤りなきようにと、これをおいたのです。政所とは、政務、財政の訴訟を司った役所。はじめは「公文所」(くもんじょ)といいました。「嘗テ」は「かつて」とよみ、以前、昔の意。「墜シ」は「おとし」とよむ。「続松」は「ついまつ」とよむ。「購ヒ」は「あがなひ」とよむ。「竟ニ」は「ついに」。「之」は「これ」とよむ。代名詞です。ついでながら「之」という字は「の」とよむ。「これ」とよむ。「ゆく」とよむ。行くとゆう動詞にもなる。「し」というよみ方もあります。雖は「いえども」とよむ。逆接接続の助詞。亦は「また」。「旨」は「むね」とよみ、趣旨。「訓セシ」は「さとせし」とよむ。教えさとすの意。「此辺」は「このあたり」とよむ。「演ゼラレ」は行われの意です。
〔参考〕
小町大路に近い宝戒寺の裏側の流れに架かっている東勝寺橋で藤綱が銭十文を落としてしまった。近くの店で五十文の続松を買い求め、水中を照らし、十文の銭を見つけ出すことが出来ましたが、「小利の大損かな」と笑った人たちに、「天下の貨幣は大切」と諭した話。このエピソードは戦前の国定教科書に絵入りで載せられたが架空の話と言われている。