• 7 東勝寺舊蹟  とうしょうじきゅうせき


碑の説明

第三の幕府跡は、二の鳥居近くにあり、民家が密集しています。近くには故大仏次郎邸があります。頼朝(よりとも)政子(まさこ)夫妻は二男二女をもうけましたが、すべて夭折(ようせつ)しました。長女(おお)(ひめ)は、彼女の(むこ)((じつ)は人質)とされた木曽(きそ)義高(よしたか)が、父の命により謀殺(ぼうさつ)されて以来、心に痛手を受け、不食の病いで十九歳で死にました。嫡男頼家(よりいえ)は、伊豆修禅寺に幽閉(ゆうへい)の末、祖父時政(ときまさ)の放った刺客に殺害されました。行年23。次女三幡(みつはた)は、高熱を発して不審な死を遂げます。時に13(さい)後鳥羽(ごとば)上皇(じょうこう)の妃の一人となる予定であった人物です。実朝(さねとも)(おい)公暁(くぎょう)の暗殺する所となりました。行年28。実朝(さねとも)(あね)三幡(みつはた)にかかわる碑が、国大(こくだい)付属中(ふぞくちゅう)校門(こうもん)(ちか)くにあります。

大正七年三月建之 鎌倉町青年會



高時やぐらの脇の階段を行くと、祇園山(ぎおんやま)ハイキング・コースに出会います。コースの中間点を下りると、妙本寺(みょうぼんじ)の境内です。上方の墓所の最奥に(たけ)御所(ごしょ)夫人(ふじん)(前回参照)の墓があり、石段を下った所に碑があります。この寺の供僧(ぐそ)仙覚(せんかく)の万葉集研究の業績を顕彰するものです。140年余り続いた鎌倉幕府滅亡の場所、石碑の左側にぽっかり口を空けているやぐらが「腹切りやぐら」と呼ばれています。


〔参考〕

東勝寺は嘉禎3年(1237)に北條泰時が退耕(たいこう)行勇(ぎょうゆう)を開山に迎え創建した寺です。 元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの時には、追い詰められた北條高時の一族郎党が この寺に立てこもり自ら火を放ち自害した所。高時主従の霊を慰める石塔が祭られています。


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