往時、此ノ地ニ北條氏ノ小町亭在リ。義時以後、累代ノ執權概ネ皆之ニ住セリ。彼ノ相模入道ガ朝暮ニ宴筵ヲ張リ、時ニ田樂法師ニ對シ、列坐ノ宗族巨室ト倶ニ、直垂大口ヲ争ヒ解キテ、纏頭ノ山ヲ築ケリト言フモ此ノ亭ナリ。元弘三年新田義貞亂入ノ際、灰燼ニ歸ス。今ノ寶戒寺ハ建武二年、足利尊氏ガ高時一族ノ怨魂弔祭ノ為、北條氏ノ菩提寺東勝寺ヲ此ノ亭ノ故址ニ再興シ、以テ其ノ號ヲ改メシモノナリ。
大正七年三月建之 鎌倉町青年會
「往時」は「おうじ」でむかし。「亭」は屋敷。相模入道は高時のこと。「朝暮」は「ちょうぼ」と音読する。あけくれの意。「宴筵」は「えんえん」で宴会の席のこと。「田楽法師」は「でんがくほうし」と読む。田植え祭など田の豊作を祈願する民謡から発展、平安から室町時代にかけて流行しました。現在は歌詞が残っていないのでよくわからない。宗族は一族。この場合は北条氏一族。「巨室」は「きょしつ」とよみ、主君に仕え勢力のある家柄。倶には「ともに」。「直垂」は「ひたたれ」。貴族や武士の日常服。「大口」は「おおくち」。下袴の一。裾口の大きく広いもの。昔は衣装を与えるのが習わしであった。自分の衣服をその場で脱いで褒美として与えたのです。纒頭は「てんどう」とよみ、芸能人に与える褒美。
〔参考〕
鶴岡八幡宮前の赤い大鳥居を右に折れて付き当たった所が寶戒寺で、ここが「北條執権屋敷跡」です。二代執権北條義時以来、北條高時まで、幕府権力の中枢の地でした。比企能員(おしかず)を招き入れ謀殺したのもここ北條氏の邸です。