• 9 文覚上人屋敷迹 もんがくしょうにんやしきあと


碑の説明

文覚(もんがく)俗稱(ぞくしょう)遠藤盛(えんどうもり)(とう)()ヒ、モト(いん)武者所(むしゃどころ)タリシガ、年十八、(おもい)左衛門(さえもんの)(じょう)源渡(みなもとのわたる)(つま)袈裟(けさ)御前(ごぜん)()ケ、(かへっ)(あやま)ツテ(これ)(ごろし)シ、愴恨(そうえん)(あまり)(そう)()ル。(その)練行(れんぎょう)(はなは)勇猛(ゆうもう)祁寒(きかん)盛暑(もうしょ)林叢(りんそう)露臥(ろが)シ、飛瀑(ひばく)凝立(ぎょうりつ)シ、(しばしば)死ニ(ひん)ス。養和(ようわ)二年四月頼朝(よりとも)本願(ほんがん)トシテ、(べん)財天(ざいてん)江島(えのしま)勸請(かんじょう)シ、(これ)参籠(さんろう)スル(こと)三七箇日(さんしちかにち)(しょく)()ツテ祈願(きがん)()ラセリト。()()(すなわ)(その)當時(とうじ)文覺(もんがく)居住(きょじゅう)舊迹(きゅうせき)ナリ。

大正十一年三月建  鎌倉町青年團



養和(ようわ)2年は、西暦1182年、この年の4月、頼朝(よりとも)は、文覚(もんがく)上人(しょうにん)に奥州の大族(おおぞく)藤原(ふじわら)秀衡(ひでひら)調伏(てうぶく)(怨敵(おんてき)降伏の祈願)を命じました。その(くだり)は以下の通りです。「4月5日、武衛(ぶえい)(頼朝(よりとも))、腰越(こしごえ)(ほとり)江島(えんのしま)()でしめ(たも)ふ。(・…-)(これ)高尾(たかお)文覚(もんかく)上人(しょうにん)武衛(ぶえい)御願(おんねがい)(いの)らんが(ため)(だい)弁財天(べんざいてん)此島(このしま)勧請(かんじょう)(たてまつ)り、供養法(くようほう)(はじ)(おこな)ふの(あいだ)、ことさらに()監臨(みりん)せしめ(たも)ふ。密儀(みつぎ)なり。此事(このこと)鎮守府(ちんじゅふ)将軍(しょうぐん)藤原(ふじわら)(ひで)(ひら)調伏(ちょうぶく)(ため)なりと云々(うんぬん)今日(こんにち)(すなわ)鳥居(とりい)()てられ、其後(そのあと)(かえ)らしめ(たも)ふ。」「4(がつ)26(にち)文覚(もんがく)上人(しょうにん)(こい)によりて営中(御所)に参ず。去る5日より江島に参籠(さんろう)し、三七ケ日(さんしちかにち)()て昨日退出す。其間(そのかん)断食(だんじき)して、懇祈(こんい)肝胆(かんたん)(くだ)くの(よし)、これを(もう)す。」奥州(おうしゅう)藤原(ふじわら)()の滅亡は、文治(ぶんじ)()(1189)年九月のことですから、頼朝(よりとも)は7年後に宿願を果たしたことになります。頼朝(よりとも)寄進(きしん)の石の鳥居は、奥津宮(おくつのみや)に今も立っています。


〔参考〕

近衛校尉遠藤時遠の子、上西門院の北面、院の武者所となった。後白河法皇に奉加を強要し罰しられて、伊豆に流されたがそこで頼朝とふれあう機会ができ、挙兵を勧めたり、京都との連絡にもあたったという。袈裟御前を誤って殺したあと出家して文覚と称しています。


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