院ハ文治元年源頼朝ノ先考義朝ヲ祀ランガ爲メニ草創スル所、一二南御堂又大御堂ト言フ。此ノ地ヲ大御堂ケ谷ト言フハ是ガ為ナリ。實朝及政子モ亦、此ノ地二葬ラレタリト傳ヘラルレドモ、其墓今ハ扇ケ谷壽福寺ニ在リ。
大正六年三月建之 鎌倉町青年會
先考は「せんこう」で父の意。頼朝の父、義朝は平治の乱(1159~1160)で敗死、朝敵として断罪されました。後白河上皇は後に義朝の名誉回復を行い、その遺骨を頼朝に返還しました。その条りは、碑文65稲瀬川の解説文を参照して下さい。
〔参考〕
文治元年(1185)頼朝が後白河法皇から父義朝の頸を受け取りその菩提をとむらうために建てた寺です。この寺は源氏ゆかりの寺というので三代将軍実朝もよくこの寺を訪れたことが、その歌集 「金槐和歌集」の詞書などに見えます。