朝宗ハ足利氏満、満兼ニ歴任シ、入道シテ襌助ト號ス。人稱シテ犬懸ノ管領ト言フ。其子氏憲、嗣デ持氏ノ執事トナリ、入道シテ襌秀ト號ス。然ルニ後、持氏ト隙アリ。應永廿三年、氏憲ハ持氏ノ叔父満隆等ト謀リ満仲ヲ奉ジテ兵ヲ起セシモ遂ニ敗レ、翌年正月一味ト共ニ雪ノ下ノ鶴岡別當坊ニ自盡ス。此所ハ即チ其邸ナリ。
昭和十年三月 鎌倉町青年團建
足利尊氏は天下を統一すると都を京の室町にうつし、以後、鎌倉は、地方都市に転落しました。尊氏は東国の支配を、我が子基氏に託しました。文中の氏満は、基氏の子で関東管領(かんれい)の職をうけつぎました。管領というのは、室町幕府の職名。幕府職制上最高の地位で将軍を補佐する。しかし執権(前時代の)よりは遙かに権力はちいさい。朝宗は、氏満に仕え、また氏満の子の満兼に仕えて、執事の地位にありました。「入道シテ」というのは、極楽浄土を願って頭を丸めること。「嗣デ」は「ついで」とよみ、後を継ぐの意味です。持氏は、足利基氏―氏満―満兼―持氏の順で第四代の関東管領。持氏は、上杉氏憲(のち禅秀と改める)と争い、敗北しました。「隙」は「げき」とよむ。すき間の意から転じて仲違い。「鶴岡別当坊」は鶴岡八幡宮寺の寺僧の長官の住居で別当は長官のこと。昔(明治以前)は八幡宮寺といい、僧侶と神主が勤務していました。この話は地方都市に転落した鎌倉での権力闘争です。上杉氏は、上杉清子が足利尊氏の母で名門でした。これは内部の争いということになります。
〔参考〕
上杉朝宗は室町時代の武将(1339~1414)鎌倉御所の足利氏満・満兼の2代に仕え執事として補佐の任をつくした。氏憲は朝宗の子で入道して後は禅秀日山と号した。鎌倉にあった足利氏は、鎌倉御所、足利公方と呼ばれていました。