• 11 上杉朝宗及氏憲邸阯 うえすぎともむねおよびうじのりていし


碑の説明

朝宗(ともむね)足利(あしかが)氏満(うじみつ)満兼(みつかね)歴任(れきにん)シ、入道(にゅうどう)シテ(ぜん)(じょ)(ごう)ス。(ひと)(しょう)シテ犬懸(いぬけ)管領(かんれい)()フ。其子(そのこ)氏憲(うじのり)(つい)(もち)(うじ)執事(しつじ)トナリ、入道(にゅうどう)シテ襌秀(ぜんしゅう)(ごう)ス。(しか)ルニ(のち)(もち)(うじ)(げき)アリ。應永(おうえい)廿(にじゅう)三年(さんねん)氏憲(うじのり)(もち)(うじ)叔父(おじ)満隆(みつたか)()(はか)(みつ)(なか)(ほう)ジテ(へい)(おこ)セシモ(ずい)(やぶ)レ、翌年(よくとし)正月一味(いちみ)(とも)(ゆき)(した)鶴岡(つるがおか)別當(べつとう)(ぼう)自盡(じじん)ス。此所(このところ)(すなわ)其邸(そのやしき)ナリ。

昭和十年三月  鎌倉町青年團建



足利尊(あしかがたか)(うじ)は天下を統一すると都を京の室町にうつし、以後、鎌倉は、地方都市に転落しました。(たか)(うじ)は東国の支配を、我が子(もと)(うじ)に託しました。文中の氏満(うじみう)は、(もと)(うじ)の子で関東管領(かんれい)の職をうけつぎました。管領というのは、室町幕府の職名。幕府職制上最高の地位で将軍を補佐する。しかし執権(前時代の)よりは遙かに権力はちいさい。朝宗(ともむね)は、氏満(うじみつ)に仕え、また氏満(うじみつ)の子の満兼(みつかね)に仕えて、執事の地位にありました。「入道(にゅうどう)シテ」というのは、極楽浄土を願って頭を丸めること。「嗣デ」は「ついで」とよみ、後を継ぐの意味です。(もち)(うじ)は、足利基(あしかがもと)(うじ)氏満(うじみつ)満兼(みつかね)(もち)(うじ)の順で第四代の関東管領。(もち)(うじ)は、上杉(うえすぎ)氏憲(うじのり)(のち禅秀(ぜんしゅう)と改める)と争い、敗北しました。「隙」は「げき」とよむ。すき間の意から転じて仲違い。「鶴岡(つるがおか)別当坊(べっとうぼう)」は鶴岡(つるがおか)八幡(はちまん)宮寺(ぐうじ)の寺僧の長官の住居で別当は長官のこと。昔(明治以前)は八幡(はちまん)宮寺(ぐうじ)といい、僧侶と神主が勤務していました。この話は地方都市に転落した鎌倉での権力闘争です。上杉(うえすぎ)()は、上杉(うえすぎ)清子(きよこ)足利(あしかが)(たか)(うじ)の母で名門でした。これは内部の争いということになります。


〔参考〕

上杉朝宗は室町時代の武将(1339~1414)鎌倉御所の足利氏満・満兼の2代に仕え執事として補佐の任をつくした。氏憲は朝宗の子で入道して後は禅秀日山と号した。鎌倉にあった足利氏は、鎌倉御所、足利公方と呼ばれていました。


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