• 12 青砥藤綱邸舊蹟 あおとふじつなていきゅうせき


碑の説明

鎌倉執権(かまくらしっけん)美績(びせき)(だん)ズル(もの)(おおむ)()時頼(ときより)時宗(ときむね)(しょう)(けだ)()(かん)兩代(りょうだい)歴任(れきにん)セル青砥(あおと)左衛門尉(さえもんのじょう)藤綱(ふじつな)補益(ほえき)(こう)()(ところ)ノモノ(また)(かなら)(すく)ナカラザルベキナリ、藤綱(ふじつな)逸話(いつわ)()ム、(かつ)(よる)()キテ滑川(なめりかわ)()ギ、(あやま)リテ(ぜに)十文(じゅうもん)ヲ。(みず)(おと)(すなわ)五十文(ごじゅうもん)(もっ)(きょ)()()(みず)()ラシテ(これ)(さぐ)レリトノ一事(いちじ)(とく)(もっと)(じん)(こう)膾炙(かいしゃ)ス、()()(その)藤綱(ふじつな)居住(きょじゅう)舊跡(きゅうせき)ナリト()

大正十年三月建之 鎌倉町青年會



美績(びせき)」はすばらしい政治上の業績。「蓋シ」は「けだし」とよむ。つまりとか、思うにの意。「其ノ間」は「そのかん」とよむ。 時頼(ときより)時宗(ときむね)が執権であった時期の意。頼朝(よりとも)頼家(よりいえ)実朝(さねとも)頼経(よりつね)頼嗣(よりつぐ)宗尊(むねたか)惟康(これやす)久明(ひさあき)守邦(もりくに)  頼経(よりつね)以下はすべて木偶(でく)将軍(しょうぐん)北条(ほうじょう)()が実権を握りました。「炬火」は「きょか」でたいまつの火。 「乃チ」は「すなわち」とよむ。さて、そこでの意。「捜レリ」は「さぐれり」で探したの意。


〔参考〕

藤綱は28歳の時、時頼に仕え、評定衆の末席に列し、後に評定衆頭にまで進んだ。賢人のほまれ高い、評判の武士と言われた人物と言われています。


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