鎌倉執権ノ美績ヲ談ズル者、概ネ先ヅ時頼、時宗ヲ稱ス蓋シ其ノ間、兩代ニ歴任セル青砥左衛門尉藤綱ガ補益ノ功ニ負フ所ノモノ亦必ズ少ナカラザルベキナリ、藤綱逸話ニ富ム、嘗テ夜行キテ滑川ヲ過ギ、誤リテ錢十文ヲ。水ニ墜ス乃チ五十文ヲ以テ炬火ヲ買ヒ水ヲ照ラシテ之ヲ捜レリトノ一事、特ニ最モ人口ニ膾炙ス、此ノ地ハ其ノ藤綱ガ居住ノ舊跡ナリト言フ
大正十年三月建之 鎌倉町青年會
「美績」はすばらしい政治上の業績。「蓋シ」は「けだし」とよむ。つまりとか、思うにの意。「其ノ間」は「そのかん」とよむ。 時頼、時宗が執権であった時期の意。頼朝―頼家―実朝―頼経―頼嗣-宗尊―惟康―久明―守邦 頼経以下はすべて木偶将軍で北条氏が実権を握りました。「炬火」は「きょか」でたいまつの火。 「乃チ」は「すなわち」とよむ。さて、そこでの意。「捜レリ」は「さぐれり」で探したの意。
〔参考〕
藤綱は28歳の時、時頼に仕え、評定衆の末席に列し、後に評定衆頭にまで進んだ。賢人のほまれ高い、評判の武士と言われた人物と言われています。