大江氏、奕世學匠トシテ顯ル。嘗テ匡房、兵法ヲ以テ義家ニ授ク。廣元ハ其ノ匡房ノ曽孫ナリ頼朝ニ招カレテ鎌倉ニ來リ、常ニ帷幄ニ侍シ機密ニ参畫ス。幕府創定ノ功、廣元ノ力與リテ多キニ居リ、相模毛利荘ヲ食ム。子孫依リテ毛利ヲ氏トス。而シテ因縁奇シクモ此ノ幕府創業ノ元勲ガ七百年後ノ末裔ハ、王政復古ニ倡首タリ。此ノ地即チ其ノ毛利ノ鼻祖大膳大夫ノ邸址ナリ。
大正十四年三月建 鎌倉町青年團
大江広元は京都の中流貴族で学問の家、頼朝に招かれて、東国に下向(げこう)して、政治顧問として才能を発揮、初代政所の長官。頼朝ー頼家ー実朝の三代に仕え、政子が信頼した政治家で広元が死ぬと間もなく政子も死にました。匡房(まさふさ)は広元の幄四代前の先祖。「帷幄」は「いあく」とよむ。いろいろな意味がありあますが作戦計画をめぐらすところ。「侍シ」は「じし」とよむ。仕えること。かれは頼朝のブレインでした。食ム(はむ)、俸禄をもらう意です。子孫の毛利氏は徳川幕府を倒す原動力となりました。王政復古は天皇制国家のいにしえに復(かえる)ことという意。倡首は(しょうしゅ)とよみ、スローガンをとなえてさきがけをなすという意。鼻祖は元祖と同じ。
〔参考〕
元暦元年(1184)源頼朝に招かれて鎌倉に下り、10月には公文所の別当となる。頼朝の側近にあって、幕府草創の大業に画策すること多く、その貢献により頼朝の深い信任を得た。墓は頼朝の墓から東に長い石段を上った中腹に3つのやぐらがあり。中央が広元の墓、中には五輪塔が安置されている。両脇は息子の毛利季光と頼朝の忠臣島津忠久の墓と伝えられている。