• 14 大江廣元邸址 おおえのひろもとていし


碑の説明

大江(おおえ)()(えき)(せい)學匠(がくしょう)トシテ(あらわ)ル。(かつ)匡房(まさふさ)兵法(へいほう)()義家(よしいえ)(さづ)ク。(ひろ)(もと)(その)匡房(まさふさ)曽孫(ぞそん)ナリ頼朝(よりとも)(まね)カレテ鎌倉(かまくら)(きた)リ、(つね)帷幄(いあく)()機密(きみつ)参畫(さんかく)ス。幕府(ばくふ)(そう)(てい)(こう)(ひろ)(もと)(ちから)(あずか)リテ(おお)キニ()リ、相模(さがみ)毛利(もうり)(そう)()ム。子孫(しそん)()リテ毛利(もうり)(うじ)トス。(しか)シテ因縁(いんねん)()シクモ()幕府(ばくふ)創業(そうぎょう)元勲(げんくん)七百年後(ななひゃくねんご)末裔(まつえい)ハ、王政(おうせい)復古(ふっこ)倡首(しょうしゅ)タリ。()()(すなわ)(その)毛利(もうり)鼻祖(びそ)大膳(だいぜん)大夫(たゆう)邸址(ていし)ナリ。

大正十四年三月建  鎌倉町青年團



大江(おおえ)広元(ひろもと)は京都の中流貴族で学問の家、頼朝(よりとも)に招かれて、東国に下向(げこう)して、政治顧問として才能を発揮、初代政所の長官。頼朝(よりとも)頼家(よりいえ)実朝(さねとも)の三代に仕え、政子(まさこ)が信頼した政治家で広元(ひろもと)が死ぬと間もなく政子(まさこ)も死にました。匡房(まさふさ)は広元(ひろもと)四代前(よんだいまえ)先祖(せんぞ)。「帷」は「いあく」とよむ。いろいろな意味がありあますが作戦計画をめぐらすところ。「侍シ」は「じし」とよむ。仕えること。かれは頼朝(よりとも)のブレインでした。食ム(はむ)、俸禄(ほうろく)をもらう意です。子孫の毛利(もうり)()徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)を倒す原動力となりました。王政復古は天皇制国家のいにしえに復(かえる)ことという意。倡首は(しょうしゅ)とよみ、スローガンをとなえてさきがけをなすという意。鼻祖(びそ)元祖(がんそ)と同じ。


〔参考〕

元暦元年(1184)源頼朝に招かれて鎌倉に下り、10月には公文所の別当となる。頼朝の側近にあって、幕府草創の大業に画策すること多く、その貢献により頼朝の深い信任を得た。墓は頼朝の墓から東に長い石段を上った中腹に3つのやぐらがあり。中央が広元の墓、中には五輪塔が安置されている。両脇は息子の毛利季光と頼朝の忠臣島津忠久の墓と伝えられている。


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