• 15 大慈寺跡 だいじじあと


碑の説明

大慈寺(だいじじ)建暦(けんりゃく)二年、源實朝(みなもとのさねとも)創建(そうけん)ニカゝリ、新御堂(しんみどう)(ごう)ス。建保(けんぽ)二年七月二十七日大供養(だいくよう)(おこな)ハレ、(あま)御臺(ごだい)政子(まさこ)(およ)将軍(しょうぐん)實朝(さねとも)(おおい)儀衛(ぎえい)()(これ)(のぞ)メリ。(あと)正嘉(しょうか)元年(がんねん)征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)宗尊(むねたか)親王(しんのう)(とき)本堂(ほんどう)丈六(じょうろく)(どう)(しん)阿彌陀堂(あみだどう)釋迦堂(しゃかどう)三重(さんじゅう)(とう)鐘樓(しょうのう)(とう)(ことごと)修理(しゅうり)(くわ)ヘラレ、荘嚴(しょうごん)()(ほと)ンド古跡(こせき)()キタリト、東鑑(あずまかがみ)()ヘタリ。當時(とうじ)盛觀(せいかん)()(おも)フベシ。爾來(じらい)星霜(せいそう)七百年、布金(ふきん)()マタ一片(いっぺん)礎石(そせき)ヲモ(とど)メズ。桑滄(そうそう)變歎(へんかん)ズベキ(かな)

昭和三年三月建之  鎌倉町青年團



実朝(さねとも)は、承久(じょうきゅう)元年正月二十七日、右大臣(うだいじん)拝賀(はいが)の儀式の当夜、(おい)であり猶子(ゆうし)でもある公暁(くぎょう)によって斬殺(ざんさつ)されました。『東鑑(あずまかがみ)』には、当日の模様が詳述されていますが、日中の(くだ)りのみ抄出(しょうしゅつ)します。「そもそも今日の勝事(しょうし)((いち)大事(だいじ))、兼ねて(前以て)変異を示す(ごと)(いつ)にあらず。所詮(全部で)御出立(ごしゅったつ)の期に及びて、(さきの)大膳(だいぜん)大夫(のたいぶ)入道(にゅうどう)(大江広元(おおえひろもと))参進(さんしん)して申して云はく、「覚阿(かくあ)(広元(ひろもと)の法名)いま成人の後、未だ涙の顔面に浮ぶ事を知らず。しかるに今、昵近(にちちか)(たてまつ)るのところ、落涙(らくるい)(きん)(かた)し。これただなる(こと)にあらず。定めて子細(わけ)あるべきか。東大寺(とうだいじ)供養(くよう)()右大(うたい)将軍(しょうぐん)(頼朝(よりとも))御出(ぎょしつ)(れい)(まか)せて((したが)って)、御束帯(おそくたい)(平安朝(へいあんちょう)以来(いらい)、貴族の礼装)の下に腹巻(略式の鎧)を着せしめ給ふべし」と云々(うんぬん)仲章(なかあき)朝臣(あそん)(もう)して()はく、「大臣(だいじん)大将(たいしょう)に昇る人、未だその式(作法)あらず」と云々(うんぬん)(しき)ってこれを止めらる。また公氏(きみうじ)(宮内(くない))、御髪(ごびん)(こう)ずるの(ところ)(みずか)御髪(おぐし)一筋(ひとすじ)()き、記念としてこれを(たも)ふ。次に庭の梅を()て、禁忌(きんき)和歌(わか)(えい)(たま)ふ。「()でて()なば(ぬし)なき宿(やど)となりぬとも軒場(のきば)(うめ)(はる)(わす)るな」。次に御門(みかど)御出(おで)の時、霊鳩(れいきゅう)(しき)りに()きき(さえず)り、車を下り(たも)ふの(きざみ)雄剣(ゆうけん)()()らると云々(うんぬん)。」


〔参考〕

源実朝の発願で、建暦二年(1212)大蔵郷の勝地に大慈寺建立の立柱上棟式を行い、建保二年(1214)大供養が行われた。45年後、正嘉元年(1257)大慈寺が破壊したので大修理が行われ、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重の塔、鐘楼がことごとく旧をしのぐほどに改修されています。


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