大慈寺ハ建暦二年、源實朝ノ創建ニカゝリ、新御堂ト號ス。建保二年七月二十七日大供養ヲ行ハレ、尼御臺政子及ヒ将軍實朝大ニ儀衛ヲ張リ之ニ臨メリ。後正嘉元年、征夷大将軍宗尊親王ノ時、本堂丈六堂、新阿彌陀堂、釋迦堂、三重ノ塔、鐘樓等、悉ク修理ヲ加ヘラレ、荘嚴ノ美殆ンド古跡ニ軼キタリト、東鑑ニ見ヘタリ。當時ノ盛觀以テ想フベシ。爾來星霜七百年、布金ノ地マタ一片ノ礎石ヲモ止メズ。桑滄ノ變歎ズベキ哉
昭和三年三月建之 鎌倉町青年團
実朝は、承久元年正月二十七日、右大臣拝賀の儀式の当夜、甥であり猶子でもある公暁によって斬殺されました。『東鑑』には、当日の模様が詳述されていますが、日中の条りのみ抄出します。「そもそも今日の勝事(一大事)、兼ねて(前以て)変異を示す事一にあらず。所詮(全部で)御出立の期に及びて、前大膳大夫入道(大江広元)参進して申して云はく、「覚阿(広元の法名)いま成人の後、未だ涙の顔面に浮ぶ事を知らず。しかるに今、昵近し奉るのところ、落涙禁じ難し。これただなる事にあらず。定めて子細(わけ)あるべきか。東大寺供養の日、右大将軍(頼朝)御出の例に任せて(隨って)、御束帯(平安朝以来、貴族の礼装)の下に腹巻(略式の鎧)を着せしめ給ふべし」と云々。仲章朝臣申して云はく、「大臣大将に昇る人、未だその式(作法)あらず」と云々。仍ってこれを止めらる。また公氏(宮内)、御髪に侯ずるの処、自ら御髪一筋を抜き、記念としてこれを賜ふ。次に庭の梅を覧て、禁忌の和歌を詠じ給ふ。「出でて去なば主なき宿となりぬとも軒場の梅よ春を忘るな」。次に御門を御出の時、霊鳩頻りに鳴きき囀り、車を下り給ふの刻、雄剣を突き折らると云々。」
〔参考〕
源実朝の発願で、建暦二年(1212)大蔵郷の勝地に大慈寺建立の立柱上棟式を行い、建保二年(1214)大供養が行われた。45年後、正嘉元年(1257)大慈寺が破壊したので大修理が行われ、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重の塔、鐘楼がことごとく旧をしのぐほどに改修されています。