鎌倉七ロノ一二シテ、鎌倉ヨリ六浦へ通ズル要衝二當リ、大切通、小切通ノニツアリ。土俗二、朝夷奈三郎義秀一夜ノ内二切抜タルヲ以テ其名アリト伝ヘラルルモ、東鑑二、仁治元年(皇紀一九〇〇)十一月、鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ。翌二年四月、經營ノ事始アリテ、執權北條泰時、其所二監臨シ、諸人群衆シテ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ、此切通ハ即チ其当時二於テ開通セシモノト思料セラル。
昭和十六年三月建 鎌倉市青年團
朝夷奈三郎が一夜で切抜いたというのは、土着の住民の伝えるところで、何の根拠もありません。かれは、これより17年以前、建保合戦の際、敗れて行方不明となりました。『吾妻鏡』は、次のように伝えています。「建保元(1213)年5月3日(……)朝夷名三郎義秀(年卅四)、併びに数率等海浜に出で、船に棹して安房国に赴く。その勢五百騎、船六艘」と云々。敗北の記事だけでは義秀が気の毒なので、かれの大力豪胆ぶりを伝える逸話を、前掲書から抄出します。正治二(1200)年9月2日、羽林(頼家)小壷(現・小坪)の海辺を歴覧せしめ給ふ。(……)次に海上に船を粧い、盃酒を献ず。しかるに朝夷名三郎義秀、水練の聞あり。此次(この機会)を以て、その芸を顕はすべきの由、御命あり。義秀辞し申す能はず。即ち船より下り、海上に浮かびて数丁を往還し、結句海底に入りて、暫く見えず。諸人怪を成すの処、生鮫三喉を提げ、御船の前に浮び上る。満座感ぜざるなし。羽林、今日御騎用の龍蹄(名馬.諾人競望をなす)を以て、義秀に給はるの処(……)」。義秀は評判の水泳の名手で、頼家の命令により、その業を披露します。かれは逗子の沖五、六百米も泳いだあと、海底にもぐり、生きた鮫を三頭ひっさげて浮び上った・・というのです。余談ながら、義秀の持仏・不動明王(石造)は、久里浜の長安寺に残されています(拝観自由)。この切通は、三代執権北條泰時が自ら陣頭指揮をし、切抜いたもので、足掛け3年にわたり、難工事の末に完成したものです。今も往時の面影を伝え、これも文化財の一つとして、長く保存されることが望まれます。
〔参考〕
仁治元年(1240)三代執権北條泰時は六浦への出口、安房の国への退路として、軍事上重要な道として切り開いた。工事は難工事だったが、その完成を称える象徴として、朝比奈三郎義秀という豪族が一晩で切り開いたという伝説が生まれ、その名を取って朝比奈切通しの名がついたと言われている。距離が長く、当時の原型を最もとどめています。