• 16 朝夷奈切通 あさひなきりどうし


碑の説明

鎌倉(かまくら)七ロ(ひちく)(いつ)二シテ、鎌倉(かまくら)ヨリ六浦(むつら)(つう)ズル要衝(ようしょう)二當リ、(おお)切通(きりどうし)()切通(きりどおし)(ふた)ツアリ。土俗(どぞく)二、朝夷奈(あさひな)三郎(さぶろう)義秀(よしひで)一夜(いちや)(うち)切抜(きりぬき)タルヲ(もっ)其名(そのな)アリト(つた)ヘラルルモ、東鑑(あずまかがみ)二、仁治(にんじ)元年(皇紀(こうき)一九〇〇)十一月、鎌倉(かまくら)六浦(むつうら)間道路(かんどうろ)開鑿(かいざく)議定(ぎじょう)アリ。翌二年(よくにねん)四月(しがつ)經營(けいえい)事始(ことはじめ)アリテ、執權(しつけん)北條泰時(ほうじょうやすとき)其所(そのところ)(かん)(りん)シ、諸人(しょにん)群衆(ぐんしゅう)シテ(おのおの)土石(どせき)(はこ)ビシコト()ユルニ(ちよう)シ、(この)切通(きりどおし)(すなわ)(その)当時(とうじ)(おい)開通(かいつう)セシモノト思料(しりょう)セラル。

昭和十六年三月建   鎌倉市青年團



朝夷奈(あさひな)三郎(さぶろう)が一夜で切抜いたというのは、土着(どちゃく)の住民の伝えるところで、何の根拠もありません。かれは、これより17年以前、建保(けんぽ)合戦の際、敗れて行方不明となりました。『吾妻鏡』は、次のように伝えています。「建保(けんぽ)(がん)(1213)年5月3日(……)朝夷名三郎義秀(年卅四(としさんじゅうよん))、併びに数率(すそつ)(とう)海浜(かいひん)に出で、船に(さおさ)して安房国(あわのくに)(おもむ)く。その(ぜい)五百(ごひゃく)()船六(ふねろく)(そう)」と云々(うんぬん)。敗北の記事だけでは義秀(よしひで)が気の毒なので、かれの大力(だいりき)豪胆(ごうたん)ぶりを伝える逸話を、前掲書(ぜんけいしょ)から抄出(しょうしゅつ)します。正治(しょうじ)二(1200)年9月2日、羽林(うりん)(頼家(よりいえ))小壷(こつぼ)((げん)小坪(こつぼ))の海辺を歴覧(れきらん)せしめ給ふ。(……)次に海上に船を(よそお)い、盃酒(はいしゅ)(けん)ず。しかるに朝夷名(あさひな)三郎(さぶろう)義秀(よしひで)水練(すいれん)(きこえ)あり。此次(このついで)(この機会)を以て、その芸を(あら)はすべきの(よし)御命(おめい)あり。義秀(よしひで)()(もう)(あた)はず。即ち船より下り、海上に浮かびて数丁を往還し、結句(けっく)海底(かいてい)に入りて、(しばら)く見えず。諸人(もろびと)(あやしみ)を成すの処、生鮫三喉(いきさめさんこう)(ひっさ)げ、御船(ぎょせん)の前に浮び上る。満座(まんざ)(かん)ぜざるなし。羽林(うりん)、今日御騎用(ごきよう)龍蹄(りゅうひ)(名馬(めいば).諾人(だくじん)競望(きょうぼう)をなす)を以て、義秀に給はるの処(……)」。義秀は評判の水泳の名手で、頼家の命令により、その業を披露します。かれは逗子の沖五、六百米も泳いだあと、海底にもぐり、生きた鮫を三頭ひっさげて浮び上った・・というのです。余談ながら、義秀の持仏・不動明王(石造)は、久里浜の長安寺に残されています(拝観自由)。この切通は、三代執権北條泰時が自ら陣頭指揮をし、切抜いたもので、足掛け3年にわたり、難工事の末に完成したものです。今も往時の面影を伝え、これも文化財の一つとして、長く保存されることが望まれます。


〔参考〕

仁治元年(1240)三代執権北條泰時は六浦への出口、安房の国への退路として、軍事上重要な道として切り開いた。工事は難工事だったが、その完成を称える象徴として、朝比奈三郎義秀という豪族が一晩で切り開いたという伝説が生まれ、その名を取って朝比奈切通しの名がついたと言われている。距離が長く、当時の原型を最もとどめています。


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