• 17 永安寺址 ようあんじあと


碑の説明

永安寺(ようあんじ)二階堂(にかいどう)(がやつ)(ぞく)ス。(かん)東管領(とうかんれい)利足(あしかが)(うじ)(みつ)開基(かいき)ニシテ、()開山(かいざん)曇芳(どんほう)和尚(おしょう)ナリ。和尚(おしょう)()周應(しゅうおう)夢想(むそう)(こく)()法嗣(ほうし)ニシテ、建長寺(けんちょうじ)瑞林庵(ずいりんあん)始祖(しそ)タリ。氏満(うじみつ)應永(おうえい)五年十一月四日ヲ(もっ)(しゅつ)ス。(その)法號(ほうごう)永安寺(ようあんじ)璧山(へきざん)全公(ぜんこう)(しょう)ス。寺號(じごう)(これ)(もとず)ク。(うじ)(みつ)(まご)(もち)(うじ)(とき)将軍(しょうぐん)義教(よしのり)(げき)アリ、(へい)(やぶ)勢窮(ぜいきわまり)此寺(このてら)籠居(ろうきょ)シテ自殺(じさつ)ス。(とき)永享(えいきょう)十一年二月十日ナリ。(この)()寺観(じかん)(また)兵火(へいか)(かか)リテ廢滅(はいめつ)()ス。此所(このところ)(じつ)其址(そのあと)ナリ。

大正十五年三月建  鎌倉町青年團



法嗣(ほうし)は「ほうし」とよむ。仏法上の後継者。勢窮(ぜいきわま)りは、軍勢が戦いに破れ潰滅(かいめつ)すること。永享(えいきょう)11年は1439年。寺観(じかん)」は「じかん」。寺院(じいん)のこと。またその外観をいうこともあります。本文は前者がよい。


〔参考〕

臨済宗の禅寺で、開山は曇芳周応、鎌倉御所であった足利氏満の菩提を弔うために建立された。永享十一年(1439)時の鎌倉御所足利持氏は、上杉憲実に攻められ一族もろとも自害した。


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