永安寺ハ二階堂谷ニ屬ス。關東管領利足氏満ノ開基ニシテ、其ノ開山ハ曇芳和尚ナリ。和尚名ハ周應、夢想國師ノ法嗣ニシテ、建長寺瑞林庵ノ始祖タリ。氏満、應永五年十一月四日ヲ以テ卒ス。其法號ヲ永安寺璧山全公ト稱ス。寺號此ニ基ク。氏満ノ孫持氏、時ノ将軍義教ト隙アリ、兵敗レ勢窮リ此寺ニ籠居シテ自殺ス。時ニ永享十一年二月十日ナリ。此日寺観亦兵火ニ罹リテ廢滅ニ歸ス。此所ハ實ニ其址ナリ。
大正十五年三月建 鎌倉町青年團
法嗣は「ほうし」とよむ。仏法上の後継者。勢窮りは、軍勢が戦いに破れ潰滅すること。永享11年は1439年。「寺観」は「じかん」。寺院のこと。またその外観をいうこともあります。本文は前者がよい。
〔参考〕
臨済宗の禅寺で、開山は曇芳周応、鎌倉御所であった足利氏満の菩提を弔うために建立された。永享十一年(1439)時の鎌倉御所足利持氏は、上杉憲実に攻められ一族もろとも自害した。