• 19 永福寺舊蹟 ようふくじきゅうせき


碑の説明

永福寺(ようふくじ)()二階堂(にかいどう)(しょう)ス。(いま)二階堂(にかいどう)ナル地名(ちめい)アルハ、(これ)ガタメナリ。文治(ぶんじ)五年、頼朝(よりとも)奥州(おうしゅう)ヨリ凱旋(がいせん)スルヤ、()地大(ちだい)長壽院(ちょうじゅいん)二階堂(にかいどう)()シテ、(これ)建立(こんりゅう)ス。輪奐(りんかん)壮厳(しょうごん)(まこと)無雙(むそう)(だい)伽藍(がらん)タリキト()フ。享徳(きょうとく)年間(ねんかん)(かん)東管領(とうかんれい)歿落(ぼつらく)セル(ころ)ヨリ(のち)(まった)頽廃(たいはい)ス。

大正九年三月建之 鎌倉町青年會



輪奐(りんかん)宮殿(きゅうでん)などの建物の大きく美しいさま。壮厳(しょうごん)=仏堂・仏具・僧などを立派に飾ること。荘厳(しょうごん)と書くのが正しい。 無雙(むそう)=二つとないこと。(そう)(そう)(おな)じ。伽藍(がらん)=寺院の建物全体のこと。 文治(ぶんじ)5年8月22日、午後3時すぎ、激しい雨の中、頼朝(よりとも)平泉(ひらいずみ)入りを果します。そこでかれが見たものは、奥州(おうしゅう)藤原(ふじわら)氏の巨万の富を傾けて築いた仏教文化の偉容でした。とりわけ、かれは大長寿院(だいちょうじゅいん)のたたずまいに圧倒され、敗者の文化に敗北したことを痛感します。鎌倉に帰つた頼朝(よりとも)は、早速大長寿院(だいちょうじゅいん)()した大伽藍(だいがらん)建立(こんりゅう)に取り組みました。『吾妻鏡(あづまかがみ)』は、その経緯を詳述しておりますが、紙幅(しふく)の都合でこれは要約にとどめます。文治(ぶんじ)5(1189)年12月9日 永福寺(ようふくじ)事始め。建久(けんきゅう)2(1191)年2月15日永福寺(ようふくじ)霊地(れいち)選定のため、頼朝(よりとも)、大倉山一帯の地を視察。建久(けんきゅう)3(1192)年1月21日頼朝(よりとも)永福寺(ようふくじ)(おもむ)く。平忠光(たいらのただみつ)頼朝(よりとも)の暗殺を図り、捕らえられる。8月24日はじめて池を掘る。頼朝(よりとも)、視察に赴く10月25日 二階堂の惣門(そうもん)完成10月29日 永福寺(ようふくじ)の扉並びに仏の後壁の画図完成。大長寿院(だいちょうじゅいん)の画図の精巧な模写という。11月2日 永福寺(ようふくじ)営作(えいさく)おわる。今は石碑が残るだけ、遺跡内は立ち入り禁止。


〔参考〕

池に面して華麗な二階建ての建物が立ち、水面にその美しい姿を映していたといわれている。 その二階建ての本堂が二階堂と呼ばれたことから、二階堂と言う地名がつけられたといわれている。本堂の扉や壁画などは平泉、中尊寺の大寿院二階堂を模もしたもので豪奢だったといわれる。鶴岡八幡宮、勝長寿院とともに頼朝の3代寺院と数えられていたが応永12年(1405)に炎上し現在は石碑だけです。


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