永福寺、世ニ二階堂ト稱ス。今ニ二階堂ナル地名アルハ、是ガタメナリ。文治五年、頼朝奥州ヨリ凱旋スルヤ、彼ノ地大長壽院ノ二階堂ニ擬シテ、之ヲ建立ス。輪奐壮厳洵ニ無雙ノ大伽藍タリキト云フ。享徳年間、關東管領ノ歿落セル頃ヨリ後、全ク頽廃ス。
大正九年三月建之 鎌倉町青年會
輪奐=宮殿などの建物の大きく美しいさま。壮厳=仏堂・仏具・僧などを立派に飾ること。荘厳と書くのが正しい。 無雙=二つとないこと。雙は双に同じ。伽藍=寺院の建物全体のこと。 文治5年8月22日、午後3時すぎ、激しい雨の中、頼朝は平泉入りを果します。そこでかれが見たものは、奥州藤原氏の巨万の富を傾けて築いた仏教文化の偉容でした。とりわけ、かれは大長寿院のたたずまいに圧倒され、敗者の文化に敗北したことを痛感します。鎌倉に帰つた頼朝は、早速大長寿院を模した大伽藍の建立に取り組みました。『吾妻鏡』は、その経緯を詳述しておりますが、紙幅の都合でこれは要約にとどめます。文治5(1189)年12月9日 永福寺事始め。建久2(1191)年2月15日永福寺の霊地選定のため、頼朝、大倉山一帯の地を視察。建久3(1192)年1月21日頼朝、永福寺に赴く。平忠光、頼朝の暗殺を図り、捕らえられる。8月24日はじめて池を掘る。頼朝、視察に赴く10月25日 二階堂の惣門完成10月29日 永福寺の扉並びに仏の後壁の画図完成。大長寿院の画図の精巧な模写という。11月2日 永福寺の営作おわる。今は石碑が残るだけ、遺跡内は立ち入り禁止。
〔参考〕
池に面して華麗な二階建ての建物が立ち、水面にその美しい姿を映していたといわれている。
その二階建ての本堂が二階堂と呼ばれたことから、二階堂と言う地名がつけられたといわれている。本堂の扉や壁画などは平泉、中尊寺の大寿院二階堂を模もしたもので豪奢だったといわれる。鶴岡八幡宮、勝長寿院とともに頼朝の3代寺院と数えられていたが応永12年(1405)に炎上し現在は石碑だけです。