• 20 理智光寺址 りちこうじあと


碑の説明

此所(このところ)願行(がんぎょう)上人(しょうにん)開山(かいざん)トセシ、五峰(ごほう)(ざん)理智(りち)光寺(こうじ)(あと)ナリ。建武(けんむ)二年、淵邊(ふちのべの)伊賀守義博(いがのかみよしひろ)足利直義(あしかがただよし)(めい)()ケ、護良(もりよし)親王(しんのう)(しい)(たてまつ)リシガ(その)御死相(ごしそう)(おそ)レ、御首(みしるし)(かたわる)ナル藪中(そうちゅう)ニ捨て去リシヲ當寺(とうじ)住僧(じゅうそう)(ひろ)()山上(さんじょう)埋葬(まいそう)(たてまつ)リシトイフ。

昭和七年三月建  鎌倉町青年團



建武(けんむ)2年は1335年。淵辺(ふちべ)義博(よしひろ)の拠点は現在の淵野辺、郷土史家は、そんな悪い人物でないと言いますが・・・。足利直義(あしかがただよし)は、(たか)(うじ)の弟。兄によって毒殺されました。ちん毒による。(じょう)妙寺(みょうじ)の一角に幽閉(ゆうへい)されたのち毒殺。(しい)しは(しいし)とよむ。臣下(しんか)が主君を殺害すること。護良(もりよし)は最近の学界では(もりよし)とよみます。 薮中は音読して(そうちゅう)


〔参考〕

永福寺跡の石碑前のT字路を入りしばらく歩くと、住宅地の中に石碑が立っている。 山号は五峰山といい、南北朝の頃までは理智光寺と呼ばれていた。 江戸時代は尼寺として東慶寺の末寺になり、石碑が建っている前あたりに、阿弥陀堂があったが、 明治期に廃寺となりました。


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