• 21 荏柄天神  えがらてんじん


碑の説明

倭名(わみょう)(しよう)當郡(とうぐん)荏草(えんさ)()セル郷名(ごうめい)アリ。(いま)其名(そのな)(しつ)スレドモ、當社(とうしゃ)附近(ふきん)舊称(きゅうしょう)ナリシガ(ごと)シ。(くさ)二「かや」ノ古訓(こくん)アレバ「えがら」ハ「江がや」ノ(てん)()ナルヲ、(のち)文字(もじ)ヲサヘ(いま)(ごと)(あらた)メシモノカ。社前(しゃぜん)松並木(まつなみき)ヲ、古来(こらい)()()(しょう)ス。本社(ほんしゃ)(もと)中央(ちゅうおう)(かん)(こう)束帯(そくたい)坐像(ざぞう)右方(うほう)天拝山(てんぱいざん)祈誓(きせい)立像(りつぞう)左方(さほう)本地(ほんじ)(ぶつ)十一面(じゅういちめん)観音(かんのん)(ぞう)安置(あんち)セシモ、勧請(かんじょう)年代(ねんだい)(つた)ヘズ。頼朝(よりとも)(こう)(はじ)メテ大蔵(おおくら)()幕府(ばくふ)(もう)ケシ(とき)當社(とうしゃ)(もっ)テ、鬼門(きもん)鎮神(しずめのかみ)トナス。爾来(じらい)歴代(れきだい)将軍(しょうぐん)尊奉(そんぽう)セシ(ところ)天文(てんもん)年間(ねんかん)北條(ほうじょう)氏康(うじやすし)社前(しゃぜん)(せき)(おき)キ、關銭(せきせん)()リテ社料(しゃりょう)(きょう)セシメシ(こと)アリ。徳川(とくがわ)()()ニハ鶴岡(つるがおか)八幡(はちまん)(ぐう)造營(ぞうえい)節毎(ふしごと)二、()餘材残木(よざいざんぼく)()ケテ、本社(ほんしゃ)修造(しゅうぞう)()ツルヲ(ためし)トセシト()フ。

昭和四年十二月 建  鎌倉町青年團



文中の「馬場」は、鎌倉(かまくら)武士が調馬に励んだ所ということです。「天文(てんもん)年間」は、1532年から1555年までの24年間、「北條(ほうじょう)氏康(うじやす)」は、北條(ほうじょう)早雲(そううん)の孫、戦国時代の武将です。鎌倉(かまくら)時代の執権北條(ほうじょう)氏とは無縁という説もあり、これは()北條(ほうじょう)氏と呼んで区別をします。境内には、清水(しみず)(こん)(故人)の筆塚(ふでづか)(かっぱ筆塚(ふでづか)の文字は川端(かわばた)康成(やすなり)の書)並びに、横山(よこやま)隆一(りゅういち)氏ほか、多数の漫画家のレリーフによる新筆塚(ふでづか)もあります。また、本殿脇には、多くの受験生の奉納した絵馬が、(にぎ)やかに飾られています。九州の太宰府天満宮、京都の北野天満宮、と並ぶ日本三天神の一つ。


〔参考〕

創建は長治元年(1104)と伝えられている。鎌倉入りした頼朝は、この古社を訪れると、大蔵幕府の鬼門の守護神として、改めて社殿を造立し手厚く保護したといわれています。祭神は菅原道真で境内には道真が愛した梅が約100本植えられています。本殿前の紅梅は鎌倉で一番早く春を告げる木として有名です。


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