倭名妙、當郡二荏草ト記セル郷名アリ。今其名ヲ失スレドモ、當社附近ノ舊称ナリシガ如シ。草二「かや」ノ古訓アレバ「えがら」ハ「江がや」ノ轉訛ナルヲ、後、文字ヲサヘ今ノ如ク改メシモノカ。社前ノ松並木ヲ、古来馬場ト稱ス。本社ハ元、中央二菅公束帯ノ坐像、右方二天拝山祈誓ノ立像、左方二本地佛十一面観音ノ像ヲ安置セシモ、勧請ノ年代ヲ傳ヘズ。頼朝公初メテ大蔵ノ地二幕府ヲ設ケシ時、當社ヲ以テ、鬼門ノ鎮神トナス。爾来、歴代将軍ノ尊奉セシ所。天文年間、北條氏康、社前二關ヲ置キ、關銭ヲ取リテ社料二供セシメシ事アリ。徳川氏ノ世ニハ鶴岡八幡宮造營ノ節毎二、其ノ餘材残木ヲ受ケテ、本社修造二抵ツルヲ例トセシト云フ。
昭和四年十二月 建 鎌倉町青年團
文中の「馬場」は、鎌倉武士が調馬に励んだ所ということです。「天文年間」は、1532年から1555年までの24年間、「北條氏康」は、北條早雲の孫、戦国時代の武将です。鎌倉時代の執権北條氏とは無縁という説もあり、これは後北條氏と呼んで区別をします。境内には、清水昆(故人)の筆塚(かっぱ筆塚の文字は川端康成の書)並びに、横山隆一氏ほか、多数の漫画家のレリーフによる新筆塚もあります。また、本殿脇には、多くの受験生の奉納した絵馬が、賑やかに飾られています。九州の太宰府天満宮、京都の北野天満宮、と並ぶ日本三天神の一つ。
〔参考〕
創建は長治元年(1104)と伝えられている。鎌倉入りした頼朝は、この古社を訪れると、大蔵幕府の鬼門の守護神として、改めて社殿を造立し手厚く保護したといわれています。祭神は菅原道真で境内には道真が愛した梅が約100本植えられています。本殿前の紅梅は鎌倉で一番早く春を告げる木として有名です。