鎌倉十橋ノ一ニシテ、建保元年(皇紀一八七三年)二月、渋川刑部六郎兼守謀反ノ罪ニヨリ誅セラレントセシ時、愁ノ餘リ和歌十首ヲ詠ジテ荏柄社頭二奉獻セシニ、翌朝、将軍實朝傳聞セラレ御感アリテ兼守ノ罪ヲ赦サレシニヨリ、其ノ報賽トシテ此ノ所二橋ヲ造立シ、以テ神徳ヲ謝シタリト伝ヘラレ、此ノ名アリ。
昭和十二年三月建 鎌倉町青年團
建保元年は1213年。実朝は歌道将軍といわれた人です。渋川は歌の才能によって一命を救われたのです。報賽(ほうさい)は神から福を受けたそのお礼としてお礼参りをしてものを寄付すること。渋川刑部は橋を寄進したのです。今は大分神社から手前のところにあります。昔はその辺りまでが神域であったのかと思われます。造立(ぞうりゅう)と読みます。
〔参考〕
建保元年(1213)、時の執権北條義時打倒の謀反が露見し、謀反に加担した渋川刑部六郎 兼守は捕われ、明日処刑されるという時、十首の歌を詠み荏柄天神に奉納した。 将軍実朝がこれを聞き知り、歌に免じて罪を許したという。兼守は命を救われたその感謝として橋 を架けた。以来この橋は「歌の橋」と呼ばれるようになりました。