• 22 歌の橋 うたのはし


碑の説明

鎌倉(かまくら)十橋(じっきょう)(いつ)ニシテ、建保(けんぽう)元年(がんねん)(皇紀(こうき)一八七三年)二月、渋川(しぶかわの)刑部(ぎょうぶ)六郎(ろくろう)兼守(かねもり)謀反(むほん)(つみ)ニヨリ(ちゅう)セラレントセシ(とき)(うれひ)(あまり)和歌(わか)十首(じゅっしゅ)(えい)ジテ荏柄(えがら)社頭(しゃとう)奉獻(ほうけん)セシニ、翌朝(よくちょう)将軍(しょうぐん)實朝(さねとも)傳聞(でんぶん)セラレ御感(ぎょかん)アリテ兼守(かねもり)(つみ)(ゆる)サレシニヨリ、()報賽(ほうさい)トシテ()(ところ)(はし)造立(ぞうりゅう)シ、(もっ)神徳(しんとく)(しゃ)シタリト(つた)ヘラレ、()()アリ。

昭和十二年三月建  鎌倉町青年團



建保(けんぽう)元年は1213年。実朝(さねとも)は歌道将軍といわれた人です。渋川は歌の才能によって一命を救われたのです。報賽(ほうさい)は神から福を受けたそのお礼としてお礼参りをしてものを寄付すること。渋川(しぶかわ)刑部(ぎょうぶ)は橋を寄進したのです。今は大分神社から手前のところにあります。昔はその辺りまでが神域であったのかと思われます。造立(ぞうりゅう)と読みます。


〔参考〕

建保元年(1213)、時の執権北條義時打倒の謀反が露見し、謀反に加担した渋川刑部六郎 兼守は捕われ、明日処刑されるという時、十首の歌を詠み荏柄天神に奉納した。 将軍実朝がこれを聞き知り、歌に免じて罪を許したという。兼守は命を救われたその感謝として橋 を架けた。以来この橋は「歌の橋」と呼ばれるようになりました。


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