當所ヲ里俗「せきば」ト稱ス。往時ハ関取場ト稱セル由。天文十七年、北條氏、関ヲ此ノ處二設ケ、関銭ヲ取ツテ、荏柄天神社頭造營ノ料二充テシメタル所トス。其ノ掟書ノ文書、今二蔵セラレテ、荏柄天神社二在リ。
昭和六年三月建 鎌倉町青年團
「関銭」は、中世、関所を通る人馬荷物などに対して徴収した税。鎌倉時代には、社寺の修造費として臨時に徴収されましたが、次第に恒常化し、後に秀吉は全国的にこれを停止しました。「荏柄天神社」の碑文中に「徳川氏ノ世ニハ鶴岡八幡宮造営ノ節毎二、其ノ余材残木ヲ受ケテ、本杜修造二抵ツル」とあるのは、件の秀吉の政策が踏襲された結果、取られた処置なのでしょう。
〔参考〕
関所というと、江戸時代には警備を主とした性格をもっていたが、戦国争乱の天文年間は通行税を取り立てる経済的な必要から設置されることが多かった、その通行税を関銭という。