• 27 法華堂跡 ほっけどうあと


碑の説明

(どう)ハモト頼朝(よりとも)持佛(ぢぶつ)(まつ)レル(ところ)ニシテ、頼朝(よりとも)(こう)()(その)廟所(びょうしょ)トナル。建保(けんぽ)五年五月、和田(わだ)義盛(よしもり)(はん)シテ、()幕府(ばくふ)(はな)テル(とき)将軍(しょうぐん)實朝(さねとも)(なん)()ケタルハ()(ところ)ナリ。寶治(ほうじ)元年六月五日、三浦泰(みうらやす)(むら)(ここ)(こもり)リテ北條(ほうじょう)(ぐん)(むか)へ、(かたな)()矢盡(やつ)キテ一族(いちぞく)郎等(ろうとう)五百餘人(よにん)(とも)自盡(じじん)シ、滿庭(まんてい)(しゅ)(いん)()メシ(あと)トス。

大正十三年三月建  鎌倉町青年團



三浦大介とその一族は、頼朝(よりとも)に対して、旗揚げ以来忠勤を(つく)し、鎌倉(かまくら)幕府の草創・発展に貢献しました。しかし、源家の血統が絶え、北條(ほうじょう)氏の独裁の時代となり、五代執権時頼(ときより)宝治(ほうじ)元(1247)年、その挑発に乗り、これと戦い敗北、碑文にあるように自尽しました。その最後の瞬間を、天井裏から目撃した(しょう)仕法師(じほうし)の証言を、『吾妻鏡(あづまかがみ)』は次のように記録しています。宝治(ほうじ)元年6月8目(光村(みつむら)のことば)「なまじひに(中途半端に)若州(わかしゅう)(泰村(やすむら))の猶予に(した)ふによって、未だに愛子の別離を(うれ)ふるのみにあらず、永く当家滅亡の恨みを(のこ)さんと欲す。後悔余りあり」てへれば、自ら刀を取りてわが顔を削り、なほ見知らるべきや否やを人々に問ふ。その流血、御影(みえい)(頼朝(よりとも)の肖像画)をけがしたてまつる。あまりさえ(そのうえ)仏閣を焼失せしめ、自殺の穢体(えたい)を隠すべきの由、結構す(企てる)。両事ともに不忠至極たるべきの旨、泰村(やすむら)しきりに制止を加ふるの間、火災に能はず(至らなかつた)。」泰村の優柔不断が一族の滅亡を招いたと、弟の光村は嘆いて自分の顔を削り、正体不明の人物として死んだという趣旨です。(文中の「欲す」は、単純未来)北條氏の専横を憤った三浦氏の支族.和田一族の反乱は、建保五(1213)年5月2日から3日にかけて行われ、大蔵幕府は焼失しました。乱後、北條義時邸を仮御所とし、政子の死を機会に、二の鳥居付近の地に御所が造営されました。現在は稲荷の社があるばかりで、往時の面影を偲ぶよすがはありません。


〔参考〕

法華堂は、現在、頼朝の墓のある位置にあり、頼朝の持仏堂であった。本尊には正観音像が 安置されています。


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