堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ、頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル。建保五年五月、和田義盛叛シテ、火ヲ幕府二放テル時、将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ処ナリ。寶治元年六月五日、三浦泰村此二寵リテ北條ノ軍ヲ邀へ、刀折レ矢盡キテ一族郎等五百餘人ト偕二自盡シ、滿庭朱殷二染メシ處トス。
大正十三年三月建 鎌倉町青年團
三浦大介とその一族は、頼朝に対して、旗揚げ以来忠勤を竭し、鎌倉幕府の草創・発展に貢献しました。しかし、源家の血統が絶え、北條氏の独裁の時代となり、五代執権時頼の宝治元(1247)年、その挑発に乗り、これと戦い敗北、碑文にあるように自尽しました。その最後の瞬間を、天井裏から目撃した承仕法師の証言を、『吾妻鏡』は次のように記録しています。「宝治元年6月8目(光村のことば)「なまじひに(中途半端に)若州(泰村)の猶予に随ふによって、未だに愛子の別離を愁ふるのみにあらず、永く当家滅亡の恨みを貽さんと欲す。後悔余りあり」てへれば、自ら刀を取りてわが顔を削り、なほ見知らるべきや否やを人々に問ふ。その流血、御影(頼朝の肖像画)をけがしたてまつる。あまりさえ(そのうえ)仏閣を焼失せしめ、自殺の穢体を隠すべきの由、結構す(企てる)。両事ともに不忠至極たるべきの旨、泰村しきりに制止を加ふるの間、火災に能はず(至らなかつた)。」泰村の優柔不断が一族の滅亡を招いたと、弟の光村は嘆いて自分の顔を削り、正体不明の人物として死んだという趣旨です。(文中の「欲す」は、単純未来)北條氏の専横を憤った三浦氏の支族.和田一族の反乱は、建保五(1213)年5月2日から3日にかけて行われ、大蔵幕府は焼失しました。乱後、北條義時邸を仮御所とし、政子の死を機会に、二の鳥居付近の地に御所が造営されました。現在は稲荷の社があるばかりで、往時の面影を偲ぶよすがはありません。
〔参考〕
法華堂は、現在、頼朝の墓のある位置にあり、頼朝の持仏堂であった。本尊には正観音像が 安置されています。