大平寺ハ比丘尼寺ニシテ、相傳フ、頼朝、池禅尼ノ舊恩二報イン為、其ノ姪女ノ所望ヲ聴キ姪女ヲシテ開山タラシメシ所ナりト。足利ノ代管領基氏ノ族喬、清渓尼ノ中興スル所トナレルガ、天文中、里見氏鎌倉ヲ鹵掠セル時、住持青岳尼ヲ奪ヒテ房州二去リテヨリ遂二頽破セリ。今ノ高松寺ハ寛永中、紀州徳川家ノ家老水野氏ガ、其ノ太平寺ノ遺址ヲ改修セルモノナリ。
昭和六年三月建之 鎌倉町青年團
池禅尼は、清盛の父忠盛の後妻、14歳の頼朝を哀れみ、清盛に助命を嘆願します。重盛もこれに口添えし、頼朝は伊豆に流されました。雌伏20年、頼朝は平家打倒に立ち上がり、文治元年(1185年)3月24日、平家を滅ぼしました。合戦は足掛け6年に亘っております。「頼朝」は池禅尼の息男頼盛を鎌倉に招いて歓待し、その所領を安堵(法的保証)しました。基氏は足利尊氏の三男です。幕府が京都室町に移り、鎌倉は地方都市となり、基氏が東国を統治します。これを管領「かんれい」と言います。蛇足ながら、室町以前のよみかたは、「かんりょう」です。
〔参考〕
鎌倉時代には、太平寺、東慶寺、国恩寺、護法寺、禅明寺と五つの尼寺があり、この太平寺 は、山号を平安山と号し、尼五山の筆頭に位していました。