• 28 太平寺跡 たいへいじあと


碑の説明

大平寺(たいへいじ)比丘(びく)()(でら)ニシテ、(あい)(つた)フ、頼朝(よりとも)池禅尼(いけのぜんに)舊恩(きゅうおん)(むく)イン(ため)()姪女(てつじよ)所望(しょもう)()姪女(てつじょ)ヲシテ開山(かいざん)タラシメシ(ところ)ナりト。足利(あしかが)()管領基氏(かんれいもとうじ)族喬(ぞくえい)清渓尼(せいけいに)中興(ちゅうこう)スル(ところ)トナレルガ、天文中(てんもんちゅう)里見(さとみ)()鎌倉(かまくら)鹵掠(ぐりゃく)セル(とき)住持(じゅうじ)青岳尼(せいがくに)(うば)ヒテ房州(ぼうしゅう)()リテヨリ(つい)頽破(たいは)セリ。(いま)高松寺(こうしょうじ)寛永中(かんえいちゅう)紀州(きしゅう)徳川家(とくがわけ)家老(かろう)水野(みずの)()ガ、()太平寺(たいへいじ)()()改修(かいしゅう)セルモノナリ。

昭和六年三月建之  鎌倉町青年團



池禅尼(いけのぜんに)は、清盛(きよもり)の父忠盛(ただもり)の後妻、14歳の頼朝(よりとも)を哀れみ、清盛(きよもり)に助命を嘆願します。重盛(しげもり)もこれに口添えし、頼朝(よりとも)は伊豆に流されました。雌伏(しふく)20年、頼朝(よりとも)は平家打倒に立ち上がり、文治(ぶんじ)元年(1185年)3月24日、平家を滅ぼしました。合戦は足掛け6年に亘っております。「頼朝(よりとも)」は池禅尼(いけのぜんに)の息男(より)(もり)を鎌倉に招いて歓待(かんたい)し、その所領を安堵(法的保証)しました。(もと)(うじ)足利(あしかが)(たか)(うじ)の三男です。幕府が京都室町に移り、鎌倉は地方都市となり、(もと)(うじ)が東国を統治します。これを管領「かんれい」と言います。蛇足ながら、室町以前のよみかたは、「かんりょう」です。


〔参考〕

鎌倉時代には、太平寺、東慶寺、国恩寺、護法寺、禅明寺と五つの尼寺があり、この太平寺 は、山号を平安山と号し、尼五山の筆頭に位していました。


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