鎌倉十橋ノ一ナリ。寶治元年(皇紀一九〇七)六月、三浦泰村一族ノ叛乱二際シ、北條時頼ノ外祖タル安達景盛ハ、其ノ一族ト共ニ兵ヲ率ヰ、此ノ橋ノ北邊ヨリ泰村ノ第ヲ攻メシコト東鑑二見エタリ。又文永二年(皇紀一九二五)三月、鎌倉二於ケル商家ノ營業地域ヲ數ヶ所二限定セル觸書中に「一所須地賀江橋」トアルハ即チ此附近ノ事ナリ。
昭和十四年三月建 鎌倉町青年團
鎌倉幕府草創の功臣三浦一族は、義明の曽孫泰村の時代に滅亡(1247年)しました。27「法華堂跡」の文章参照。
〔参考〕
鎌倉の重要な道筋に架かっていた橋、鉤のように道筋が曲がっているため、道筋を替えること から筋替橋と呼ばれたという。宝治元年(1247)三浦氏謀反の噂が立ったのを幸いに、安達盛長が筋替橋の北側から鏑矢を放ち、三浦泰村との戦いの火蓋を切った宇治合戦で、三浦一族は滅びてしまいました。