• 29 筋替橋 すじかえばし


碑の説明

鎌倉(かまくら)十橋(じっきょう)(いつ)ナリ。寶治(ほうじ)元年(皇紀(こうき)一九〇七)六月、三浦泰村(みうらやすむら)一族(いちぞく)叛乱(はんらん)(さい)シ、北條(ほうじょう)時頼(ときより)外祖(がいそ)タル()(だちの)景盛(かげもり)ハ、()一族(いちぞく)(とも)(へい)(ひき)ヰ、()(はし)北邊(ほくへん)ヨリ泰村(やすむら)(てい)()メシコト東鑑(あずまかがみ)()エタリ。又文永(ぶんえい)二年(皇紀(こうき)一九二五)三月、鎌倉(かまくら)()ケル商家(しょうか)營業(えいぎょう)地域(ちいき)(すう)(しょ)限定(げんてい)セル觸書(ふれがき)(ちゅう)に「一所(いつしよ)須地賀(すじか)江橋(えばし)」トアルハ(すなわ)此附近(このふきん)(こと)ナリ。

昭和十四年三月建  鎌倉町青年團



鎌倉(かまくら)幕府草創の功臣三浦(みうら)一族は、義明(よしあき)曽孫(そうそん)泰村(やすむら)の時代に滅亡(1247年)しました。27「法華堂(ほっけどう)跡」の文章参照。


〔参考〕

鎌倉の重要な道筋に架かっていた橋、鉤のように道筋が曲がっているため、道筋を替えること から筋替橋と呼ばれたという。宝治元年(1247)三浦氏謀反の噂が立ったのを幸いに、安達盛長が筋替橋の北側から鏑矢を放ち、三浦泰村との戦いの火蓋を切った宇治合戦で、三浦一族は滅びてしまいました。


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