正治元年五月、頼朝ノ女三幡姫疾ミ、之ヲ治センガ為、當世ノ名醫丹波時長、京都ヨリ來レル事アリ。東鑑ニ曰ク、「七日、時長、掃部頭親能ガ龜ヶ谷ノ家ヨリ、畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅二移住ス、是近々ニ候ゼシメ、姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ爲ナリ」ト。此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ。
大正十二年三月 鎌倉町青年團建
正治元年は1199年、1月13日には頼朝が死に、6月30日には三幡も死にました。政子は後鳥羽上皇の侍医・針博士時長を招請して治療に当たらせました。「5月8日 陰り。時長初めて朱砂丸を姫君に献ず。よって砂金20両以下の禄を賜はると云々。5月29日 今夕、姫君いささか御食事あり。上下喜悦の外他なしと云々。6月14日姫君なほ疲労せしめ給ふ。あまつさへ(そのうえ)、去ぬる12日より御目の上腫れたまふ。この事、殊なる凶相(死相)の由、時長これを驚き申す。6月26日 医師帰洛す。6月30日 午の刻(十二時)遷化す。尼御台所(政子)の御嘆嗟、これを記するに遑あらず。乳母の夫掃部頭親能(中原)出家を遂ぐ。」(『吾妻鏡』より抄出)朱砂丸の原料は、朱砂または辰砂といい、深紅色の六方晶系の鉱石で、毒々しい感を与えます。水銀と硫黄との化合物なので、水銀製造や赤石絵具に使用します。時長が匙加減を誤り、三幡姫を水銀中毒死させたのでしょうか。記述が簡略のため、病名も死因も明らかでありません。
〔参考〕
畠山重忠は、頼朝の信頼あつき武将であったので、この地に邸を与えられたといいます。 幕府に近い位置に邸をゆるされた畠山氏、三浦氏、和田氏等の邸配置を見ると、これら三氏 がいかに頼朝の信頼深き武将であったかを知ることができます。