此邊ハ往昔柳ノ名所ニテ、柳原ト唱ヘシ由。口碑ニ、「年経たる鶴岡邊の柳原青みにけりな春のしる志に」ノ古歌傳ヘラル。其ノ作者詳ナラザレドモ、一説ニハ北條泰時ノ歌トモイフ。現存ノ柳ハ、即チ往時ノ名殘ナラン
昭和九年三月 鎌倉町青年團建
柳原(八幡宮の中にあり。休憩所を出て国宝館への道の途中)「口碑」(言い伝え)「詳」(つまびらか)とよむ「年経たる」(としへたる)とよむ 「鶴岡辺」(つるがおかべ)とよむ しるし(証拠)な(詠嘆の助詞)歌の大意(年月をへたつるがおかべの柳原の柳は、芽ぶいたことだなあ、春が訪れた証拠として)。泰時は、三代目の執権。
〔参考〕
八幡宮の舞殿の東方、もと薬師堂の前までを称した地名で、このあたりに柳が多かったからや、 片枯れした柳の老大樹が一本あって、水辺に根をおき、わずかに枝葉を生やしていたのが地名の由来ともいわれています。