四條天皇延應元年、鎌倉中處々喧嘩闘諍ノ事アリ。特ニ其ノ五月廿二日ニハ大騒動ヲ起セシト云フ。茲日、後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御シ給フ。由リテ斯ハ其ノ怨念ノ然ラシメシ所ナラントテ、寶治元年四月、大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建テ、其院ノ尊靈ヲ勸請シ奉リ、順徳院及ビ護持僧長賢ヲ合祀セラル長賢ハ承久ノ役、官軍ニ属シテ奮戰、後捕ハレテ陸奥ニ謫セラレシ者ト云フ。今宮ハ又新宮ト書ス。
昭和四年十二月 鎌倉町青年團
四条天皇は第87代。延応元年は1239年。闘諍(あらそい)茲日後鳥羽院は第82代の天皇。譲位後、上皇として政治の実権を握り、実朝が死ぬと、北條氏追討を命じます。北條義時は直ちに泰時に命じて朝廷軍を敗ります。義時は、戦後処理として後鳥羽は隠岐、順徳天皇は佐渡、土御門天皇は土佐へ流す強硬な処断をしました。後鳥羽は十九年間隠岐の島で流謫生活をおくり、その地でなくなりました。崩御は天皇、上皇、皇后、皇太后の死。宝治元年は1247年。三浦一族が滅亡した年。大臣山は八幡宮寺の裏山です。謫セラルは流されたの意味です。
〔参考〕
延応元年五月二十二日に鎌倉に大騒動が起こったということは、吾妻鏡には全く記されてなくまた、この日に後鳥羽上皇が隠岐の島で亡くなられたとあるが、事実は2月22日であって、鎌倉に伝えられたのは3月17日のことである。この碑は何を述べているのか?