• 33 今 宮 いまみや


碑の説明

四條(しじょう)天皇(てんのう)延應(えんおう)元年、鎌倉(かまくら)中處々(じゅうしょしょ)喧嘩(けんか)闘諍(とうしょう)(こと)アリ。(とく)(その)ノ五月廿二日ニハ(だい)騒動(そうどう)()セシト()フ。茲日(このひ)()鳥羽院(とばいん)隠岐(おき)崩御(ほうぎょ)(たも)フ。()リテ(これ)(その)怨念(おんねん)(しか)ラシメシ(ところ)ナラントテ、寶治(ほうじ)元年四月、大臣山(だいじんやま)西麓(せいろく)今宮(いまみや)()テ、其院(そのいん)尊靈(そんれい)勸請(かんじょう)(たてまつ)リ、順徳(じゅんとく)(いん)(およ)護持(ごじ)(そう)長賢(ちょうけん)(ごう)()セラル長賢(ちょうけん)承久(じょうきゅう)(えき)官軍(かんぐん)(ぞく)シテ奮戰(ふんせん)(のち)(とら)ハレテ陸奥(むつ)(たく)セラレシ(もの)()フ。今宮(いまみや)(また)新宮(いまみや)(しょ)ス。

昭和四年十二月  鎌倉町青年團



四条天皇は第87代。延応(えんおう)元年は1239年。闘諍(とうじょう)(あらそい)茲日(このひ)後鳥羽院(ごとばいん)は第82代の天皇。譲位後、上皇として政治の実権を握り、実朝(さねとも)が死ぬと、北條(ほうじょう)()追討(ついとう)を命じます。北條義時(ほうじょうよしとき)は直ちに泰時(やすとき)に命じて朝廷軍を敗ります。義時(よしとき)は、戦後処理として後鳥羽(ごとば)隠岐(おき)順徳(じゅんとく)天皇は佐渡、(つち)御門(みかど)天皇は土佐へ流す強硬な処断をしました。後鳥羽(ごとば)は十九年間隠岐(おき)の島で流謫(るたく)生活をおくり、その地でなくなりました。崩御(ほうぎょ)は天皇、上皇、皇后、皇太后の死。宝治(ほうじ)元年(がんねん)は1247年。三浦一族が滅亡した年。大臣山は八幡宮寺の裏山です。()セラルは流されたの意味です。


〔参考〕

延応元年五月二十二日に鎌倉に大騒動が起こったということは、吾妻鏡には全く記されてなくまた、この日に後鳥羽上皇が隠岐の島で亡くなられたとあるが、事実は2月22日であって、鎌倉に伝えられたのは3月17日のことである。この碑は何を述べているのか?


<< 前のページへ次のページへ >>