• 34 二十五坊舊蹟  にじゅうごぼうきゅうせき


碑の説明

()()頼朝(よりとも)時代(じだい)以来(いらい)八幡宮(はちまんぐう)供僧(ぐそう)僧舎(そうしゃ)二十五(ぼう)(およ)別當坊(べつとうぼう)()カレシ(ところ)ナリ。()別當(べつとう)()(ぎょう)實朝(さねとも)(こうべ)()にして(ひそ)ミタル、後見(こうけん)備中(びっちゅう)阿闍梨(あじゃり)(いえ)(また)(ここ)()()リタルナリ。應永(おうえい)(ちゅう)院宣(いんぜん)ニヨリ(ぼう)(しょう)(いん)(あらた)ム。戦國(せんごく)()(いた)リ、鎌倉(かまくら)管領(かんれい)衰微(すいび)(とも)各院(かくいん)次第(しだい)廢絶(はいぜつ)シ、大正(たいしょう)(すえ)(おい)テハ(わずか)ニ七(いん)(ぞん)セルノミ。文禄(ぶんろく)(ちゅう)徳川(とくがわ)家康(いえやす)(いん)再興(さいこう)シテ十二(いん)トナセルガ、明治(めいじ)維新(いしん)()(つい)(まったく)廢墟(はいきょ)トナレリ。

大正七年三月建之  鎌倉町青年會



頼家(よりいえ)の遺児公暁(くぎょう)は、祖母政子の(はから)いで三井寺で修業し、十八歳で鶴岳八幡宮寺の別当(僧侶の長)に就任、叔父実朝(さねとも)を暗殺し、四代将軍たらんとしましたが、頼みとした三浦(みうら)義村(よしむら)に討たれました。公暁(くぎょう)烏帽子親(えぼしおや)義村(よしむら)であり、義村(よしむら)の妻は公暁(くぎょう)乳母(めのと)であり、実朝殺しは、公暁(くぎょう)義村(よしむら)の合作説が行われています(永井路子氏の所説)。


〔参考〕

寺院で僧の居住するところを坊といい、その坊の主であるところから、僧を坊主いう。 また師の御坊という敬称も生まれた。八幡宮も二十五坊が設けられ、社務の長官(別当)が住む別当坊も 建てられていた。 将軍実朝を殺害した公暁はこの別当職であった。


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