此ノ地ハ頼朝時代以来、八幡宮供僧ノ僧舎二十五坊及ビ別當坊ノ置カレシ處ナリ。彼ノ別當公暁ガ實朝ノ首ヲ手にして潜ミタル、後見備中阿闍梨ノ宅モ亦此ノ地二在リタルナリ。應永中、院宣ニヨリ坊ノ稱ヲ院ト改ム。戦國ノ世ニ至リ、鎌倉管領ノ衰微ト共ニ各院次第ニ廢絶シ、大正ノ末ニ於テハ僅ニ七院ヲ存セルノミ。文禄中、徳川家康五院ヲ再興シテ十二院トナセルガ、明治維新後遂ニ全ク廢墟トナレリ。
大正七年三月建之 鎌倉町青年會
頼家の遺児公暁は、祖母政子の計いで三井寺で修業し、十八歳で鶴岳八幡宮寺の別当(僧侶の長)に就任、叔父実朝を暗殺し、四代将軍たらんとしましたが、頼みとした三浦義村に討たれました。公暁の烏帽子親は義村であり、義村の妻は公暁の乳母であり、実朝殺しは、公暁と義村の合作説が行われています(永井路子氏の所説)。
〔参考〕
寺院で僧の居住するところを坊といい、その坊の主であるところから、僧を坊主いう。 また師の御坊という敬称も生まれた。八幡宮も二十五坊が設けられ、社務の長官(別当)が住む別当坊も 建てられていた。 将軍実朝を殺害した公暁はこの別当職であった。