源氏山ハ始メ武庫山ト云ヒ、龜ヶ谷ノ中央ニアル形勝ノ地ナルヲ以テ、又 龜谷山トモ稱セリ。源頼義、義家親子、奥州征伐ノ時、此山ニ旗ヲ立テタルヨリ、或ハ旗立山卜名付ク。山ノ麓壽福寺境内付近ハ、爾来源氏世々ノ邸宅タリシ地ナリト云フ。源氏山ノ名称ハ之二起因セルカ。旗竿ヲ建テシトイフ故跡ハ今尚ホアリ。
昭和三年三月建之 鎌倉町青年團
この石碑は、寿福寺前にあります。碑文のとおり、山頂に故跡があります。 治承4年8月、頼朝は南関東の武士団を結集して決起します。しかし、三浦一族が折柄の台風に妨げられ、合力できず、石橋山に敗れた頼朝は、辛うじて安房に脱れます。ところが忽ち、頼朝は千葉常胤や平広常ら房総の豪族の合力を得て、3万余の大軍となって鎌倉に入り、この地をもって、関東独立の拠点としました。挙兵から僅か二ヶ月足らずの間のことです。では、『吾妻鏡』によって、その個所を読んでみましょう。「10月6日、相模国に著御。畠山次郎重忠先陣たり。千葉介常胤御後に侯ず。凡そ扈従の軍士幾千万なるかを知らず。楚忽の間、未だ営作の沙汰に及ぱず。民屋を以て御宿館に定めらると云々。7日、先ず鶴岡八幡宮を遥拝し奉り給ひ、次に左典厩(父義朝)の亀谷の御旧跡を監臨し給ふ。即ち当所を点じて(選定し)御亭を建てらるべきの由、その沙汰ありといへども、地形広きにあらず、又岡崎平四郎義実、かの没後を訪ひ奉らんがため、一梵宇を建つ。よってその儀を停めらると云々。9日 大庭平太景義の奉行として、御亭の作事を始めらる。」1180年10月6日 17歳の若武者畠山重忠が名誉の先陣を承り、63歳の老雄千葉常胤が頼朝の後ろに控え身辺警戒の任に当り、鎌倉入りをしました。御所は、はじめ父祖ゆかりの地の寿福寺一帯を選びましたが、土地狭隘であるうえ、そこに父の廟があったので取り止めました。新都の建設は、懐島(現茅ヶ崎)の豪族大庭景義がこれに当り、大蔵の地に御所の造営も始まります。鎌倉随一の桜の名所、源氏山公園に頼朝の像があります。源義家が後三年の役の時に白旗を立てて陣営を整えたことから源氏山、白旗山、旗立山と呼ばれています。
〔参考〕
源氏の鎌倉入り800年を記念して芝生広場や散歩道のある公園として整備された。公園の中央 には高さ2mもの鎧に身を固めた若き日の源頼朝が立っています。 現在鎌倉山と並ぶ花見のメッカで、早咲きの彼岸桜から遅咲きの八重桜まで、400本近い桜が 咲き継ぎ、いたるところで花見の宴が開かれています。