• 36 源氏山 げんじやま


碑の説明

源氏(げんじ)(やま)(はじ)武庫山(むこやま)()ヒ、龜ヶ谷(かめがやつ)中央(ちゅうおう)ニアル形勝(けいしょう)()ナルヲ(もっ)テ、(また) (かめが)谷山(やつさん)トモ(しょ)セリ。源頼義(みなもとのよりよし)義家(よしいえ)親子(おやこ)奥州(おうしゅう)征伐(せいばつ)(とき)(この)(やま)(はた)()テタルヨリ、(ある)旗立(はたたて)(やま)名付(なづ)ク。(やま)(ふもと)(じゅ)福寺(ふくじ)境内(けいだい)付近(ふきん)ハ、爾来(じらい)源氏(げんじ)世々(よよ)邸宅(ていたく)タリシ()ナリト()フ。源氏山(げんじやま)名称(めいしょう)(これ)起因(きいん)セルカ。旗竿(はたざお)()テシトイフ故跡(こし)(いま)()ホアリ。

昭和三年三月建之  鎌倉町青年團



この石碑(せきひ)は、寿(じゅ)福寺(ふくじ)前にあります。碑文(ひぶん)のとおり、山頂に故跡があります。 治承(じしょう)4年8月、頼朝は南関東の武士団を結集して決起します。しかし、三浦一族が折柄の台風に妨げられ、合力(こうりょく)できず、石橋山に敗れた頼朝(よりとも)は、辛うじて安房(あわ)に脱れます。ところが(たちま)ち、頼朝(よりとも)千葉(ちば)常胤(つねたね)平広常(たいらのひろつね)房総(ぼうそう)豪族(ごうぞく)の合力を得て、3万余の大軍となって鎌倉に入り、この地をもって、関東独立の拠点としました。挙兵(きょへい)から(わず)か二ヶ月足らずの間のことです。では、『吾妻鏡(あづまかがみ)』によって、その個所を読んでみましょう。「10月6日、相模国に著御(ちゃくぎょ)畠山(はたけやま)次郎(じろう)重忠(しげただ)先陣たり。千葉(ちば)(のすけ)常胤(つねたね)()(あと)(こう)ず。(およ)扈従(こしょう)の軍士幾千万なるかを知らず。楚忽(そたちま)の間、(いま)だ営作の沙汰(さた)に及ぱず。民屋(みんおく)を以て御宿館(ごしゅくかん)に定めらると云々。7日、先ず鶴岡八幡宮を遥拝(ようはい)(たてまつ)(たも)ひ、次に左典厩(さてんきゅう)(父義朝)の亀谷(かめがやつ)の御旧跡を監臨(かんりん)し給ふ。即ち当所を点じて(選定し)御亭(ぎょてい)を建てらるべきの由、その沙汰(さた)ありといへども、地形広きにあらず、又岡崎平四郎義実(よしざね)、かの没後を訪ひ奉らんがため、(いち)(ぼん)()を建つ。よってその儀を停めらると云々。9日 大庭(おおば)平太(へいた)景義(かげよし)の奉行として、御亭の作事(さくじ)を始めらる。」1180年10月6日 17歳の若武者畠山(はたけやま)重忠(しげただ)が名誉の先陣を承り、63歳の老雄千葉(ちば)常胤(つねたね)頼朝(よりとも)の後ろに控え身辺警戒の任に当り、鎌倉入りをしました。御所は、はじめ父祖ゆかりの地の寿福寺一帯を選びましたが、土地狭隘(きょうあい)であるうえ、そこに父の(びょう)があったので取り止めました。新都の建設は、懐島(ふところじま)(現茅ヶ崎)の豪族大庭(おおば)景義(かげよし)がこれに当り、大蔵の地に御所の造営も始まります。鎌倉随一の桜の名所、源氏山公園に頼朝(よりとも)の像があります。源義家(みなもとのよしいえ)が後三年の役の時に白旗を立てて陣営を整えたことから源氏山、白旗山、旗立山と呼ばれています。


〔参考〕

源氏の鎌倉入り800年を記念して芝生広場や散歩道のある公園として整備された。公園の中央 には高さ2mもの鎧に身を固めた若き日の源頼朝が立っています。 現在鎌倉山と並ぶ花見のメッカで、早咲きの彼岸桜から遅咲きの八重桜まで、400本近い桜が 咲き継ぎ、いたるところで花見の宴が開かれています。


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