• 37 太田道灌邸舊蹟  おおたどうかんていきゅうせき


碑の説明

()()武略(ぶりゃく)文藻(ぶんそう)()(そな)ヘ、(かたらげな)クモ『()蔵野(さしの)萱原(かやはら)()()きしかどかゝる言葉(ことば)(はな)もあるかな』テフ(えい)(かん)ニサヘ(あずかり)リタル、道灌(どうかん)太田(おおた)持資(もちすけ)江戸(えど)築城前(ちくじょうまえ)邸址(ていし)ナリ。寛永(かんえい)十一年、(いま)(えい)勝寺(しょうじ)()ル。(その)創立者(そうりつしゃ)水戸(みと)藩祖(はんそ)頼房(よりふさ)(じゅん)()英勝院(えいしょういん)ハ、道灌(どうかん)嫡流(ちゃくりゅう)太田(おおた)康資(やすすけ)(むすめ)ナルヨリ晩年(ばんねん)将軍(しょうぐん)家光(いえみつ)ヨリ(とく)()()(さずか)リテ、(これ)(じゅう)スルニ(いた)レルナリ。孤鞍(こあん)(あめ)()イテ茅茨(こうし)(たた)ク、少女(しょうじょ)(ため)(あく)(はな)一枝(いっし)()(しげ)アル逸話(いつわ)ハ、道灌(どうかん)壮年(そうねん)(なお)(ここ)()リシ()(おい)(えん)ゼラレシ(ところ)ノモノナリ。

大正十年三月建之  鎌倉町青年會



1465年太田道(おおたどう)(かん)が上洛して後土御門(ごつちみかど)天皇に拝謁(はいえつ)したとき、(みかど)は関東の地はいかなるところか、とご下問になりました。道潅(どうかん)は即座に短歌二首を詠じてこれにお答え申し上げました。碑文中の短歌は天皇のご返歌です。その歌の中の「萱原の野」は菅原孝標(たかすえ)の娘が記した「更級日記(さらしなのにき)」の記述の()った語句です。上総介(かずさのすけ)の任期を終え帰洛の途次13歳の彼女は行と共に武蔵野の荒涼たる萱原(かやはら)を馬で通ったと記しています。(みかど)は「更級(さらしな)日記」に読んでおられたのです。同じく碑文中の「狐鞍雨(こあんあめ)()イテ茅茨(ごうし)(たた)ク、少女ノ為ニ(おくる)ル花一枝(いっし)」は大槻清崇(おおつききよたか)の「題道潅借蓑図」(道潅蓑を借る図に題す)に()る作文です。武略(ぶりゃく)(戦略)文藻(ぶんそう)(文才)(やすし)くも(おそれおおくも)叡感(えいかん)(天皇の感動)准母(じゅんぼ)(天皇・皇親の母代(ははしろ)頼房(よりふさ)(家康の末子・水戸藩主)弧鞍(こあん)(一人騎乗すること茅茨(ぼうし)(ちがやといばら。転じて粗末な家や屋根)。


〔参考〕

「七重八重、花は咲けども、山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」道灌が狩りに行った折、 雨に降られてしまい、そばにある家に蓑を貸してもらえないかと頼んだところ、少女が出てきて 山吹の花を差し出して詠んだとの逸話があります。「実の」と「蓑」の掛け詞で、雨具が無いと言う 意味だった。道灌は自分の無学を恥じて学問に励んだという逸話が漢詩にも歌われていますが、作られた伝説です。


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