此ノ地ハ武略文藻兼ネ備ヘ、恭クモ『武蔵野は萱原の野と聞きしかどかゝる言葉の花もあるかな』テフ叡感ニサヘ預リタル、道灌太田持資ガ江戸築城前ノ邸址ナリ。寛永十一年、今ノ英勝寺ト為ル。其ノ創立者、水戸藩祖頼房ノ准母英勝院ハ、道灌ノ嫡流太田康資ノ女ナルヨリ晩年将軍家光ヨリ特ニ此ノ地ヲ授リテ、之ニ住スルニ至レルナリ。孤鞍雨ヲ衝イテ茅茨ヲ叩ク、少女為ニ遺ル花一枝ノ詩趣アル逸話ハ、道灌ガ壮年猶此ニ在リシ日ニ於テ演ゼラレシ所ノモノナリ。
大正十年三月建之 鎌倉町青年會
1465年太田道潅が上洛して後土御門天皇に拝謁したとき、帝は関東の地はいかなるところか、とご下問になりました。道潅は即座に短歌二首を詠じてこれにお答え申し上げました。碑文中の短歌は天皇のご返歌です。その歌の中の「萱原の野」は菅原孝標の娘が記した「更級日記」の記述の拠った語句です。上総介の任期を終え帰洛の途次13歳の彼女は行と共に武蔵野の荒涼たる萱原を馬で通ったと記しています。帝は「更級日記」に読んでおられたのです。同じく碑文中の「狐鞍雨ヲ衝イテ茅茨ヲ叩ク、少女ノ為ニ遺ル花一枝」は大槻清崇の「題道潅借蓑図」(道潅蓑を借る図に題す)に拠る作文です。武略(戦略)文藻(文才)恭くも(おそれおおくも)叡感(天皇の感動)准母(天皇・皇親の母代)頼房(家康の末子・水戸藩主)弧鞍(一人騎乗すること)茅茨(ちがやといばら。転じて粗末な家や屋根)。
〔参考〕
「七重八重、花は咲けども、山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」道灌が狩りに行った折、 雨に降られてしまい、そばにある家に蓑を貸してもらえないかと頼んだところ、少女が出てきて 山吹の花を差し出して詠んだとの逸話があります。「実の」と「蓑」の掛け詞で、雨具が無いと言う 意味だった。道灌は自分の無学を恥じて学問に励んだという逸話が漢詩にも歌われていますが、作られた伝説です。