- 38 扇谷上杉管領屋敷迹 おうぎがやつうえすぎかんれいやしきあと
内大臣藤原高藤十三代ノ裔ニ重房アリ。宗尊親王ニ從ヒテ鎌倉ニ下リ、食邑ヲ丹波國上杉荘ニ賜リテ、始メテ上杉氏ヲ稱セルガ、其ノ曽孫憲顯、管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族勢力ヲ關東ニ占ム。門葉數家、重房五世ノ孫、顯定扇谷家ヲ創ム。文明ノ交、扇谷家六代ノ主、定正、賢臣太田道灌ヲ用ヒテ家聲ヲ揚クルヤ、世ニ宗家山内ト共ニ兩上杉又ハ兩管領ト稱ス。此ノ地即チ其ノ邸址ナリ。
大正十一年三月建 鎌倉町青年團
英勝寺前の鉄道踏み切りを渡ったところにあります。裔(子孫)。食邑(その人治めている領地)。曾孫(ひまご)。4代目に当る。執事(いろいろな意味があるが、本文では、貴人の側近として、事務を執行する人をいう)創ム。文明ノ交は1469年から1487年まで。交とは、あいだの意。例 夏秋の交。定正 道灌を重用して勢力を伸張、のちにこれを危険視して、招いて風呂場で殺害した人物。
〔参考〕
扇谷上杉と山内上杉は、鎌倉時代の中期以後、鎌倉にあって次第に勢力を持ち。室町、戦国の世になっては、鎌倉にある足利管領の補佐役として権勢をふるっていました。しかし両家の間にはいつしかライバル意識が強まって、その確執を和らげようと努力した大田道灌は、これを危険視した扇谷上杉定正に殺さる悲劇まで起こってしまいました。