• 39 藤谷黄門遺蹟  ふじがやつこうもんいせき


碑の説明

冷泉(れいせん)為相(ためいき)(きょう)為家(ためいえ)()ナリ。従二(じゅうに)()中納言(ちゅうなごん)トナル。和歌所(わかどころ)(こと)(よし)(あに)(ため)(うじ)争論(そうろん)(すえ)、ソノ(はは)阿仏尼(あぶつじ)(とも)鎌倉(かまくら)(きた)幕府(ばくふ)(うった)フ。(つい)藤谷(ふじがやつ)(ぐう)シ、藤谷(ふじがやつ)殿(どの)(しょ)セラル。「藤谷(ふじがやつ)百首(ひゃくしゅ)」ト()ビ、()傳誦(でんしょう)セラルゝ。和歌(わか)ハ、此地(このち)ニデ詠出(えいしゅつ)セラレシ(もの)ナリ。網引(あみびき)地蔵(じぞう)ハ、(その)建立(こんりゅう)(かかわ)ルト()フ。(きょう)(はか)(その)後山(こうざん)(いただき)()リ。五(りん)(とう)ニシテ、月巖寺(げつがんじ)殿玄(でんげん)國昌久(こくしょうきゅう)ノ八()(こく)セシト()フモ、(おま)漫滅(まんめつ)シテ字体(じたい)(べん)ゼズ。

昭和四年三月  鎌倉町青年團



為相(ためいき)は鎌倉に永住して、東国歌壇の指導者となりました。なお「黄門」とは中納言の唐名(からな)であり、 固有名詞ではありません。水戸光圀(みつくに)は中納言であったので、人詠んで水戸黄門としたのです。かれは、荒廃した為相(ためいき)の墓所を修理、保存した人です。光圀(みつくに)が献納した(いし)(さく)は、今も見ることができます。


〔参考〕

鎌倉では藤谷に住んだので藤谷黄門と呼ばれ「藤谷和歌集」「為相卿千首」などをまとめた。鎌倉幕府に訴えを出した、長年の係争は、勝利しその所領を確保できました。


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