冷泉為相卿ハ為家ノ子ナリ。従二位中納言トナル。和歌所ノ事ニ由リ兄為氏ト争論ノ末、ソノ母阿仏尼ト共ニ鎌倉ニ来リ幕府二訴フ。遂二藤谷ニ寓シ、藤谷殿ト稱セラル。「藤谷百首」ト呼ビ、世ニ傳誦セラルゝ。和歌ハ、此地ニデ詠出セラレシ者ナリ。網引地蔵ハ、其ノ建立二係ルト云フ。卿ノ墓ハ其ノ後山ノ頂ニ在リ。五輪塔ニシテ、月巖寺殿玄國昌久ノ八字ヲ刻セシト謂フモ、今ハ漫滅シテ字体ヲ辨ゼズ。
昭和四年三月 鎌倉町青年團
為相は鎌倉に永住して、東国歌壇の指導者となりました。なお「黄門」とは中納言の唐名であり、 固有名詞ではありません。水戸光圀は中納言であったので、人詠んで水戸黄門としたのです。かれは、荒廃した為相の墓所を修理、保存した人です。光圀が献納した石の柵は、今も見ることができます。
〔参考〕
鎌倉では藤谷に住んだので藤谷黄門と呼ばれ「藤谷和歌集」「為相卿千首」などをまとめた。鎌倉幕府に訴えを出した、長年の係争は、勝利しその所領を確保できました。