氣生坂又ハ形勢坂二作ル。此名稱ハ、往時平家ノ大将ヲ討取リ、其首ヲ假粧シテ實檢二備ヘシニ據リ起ルト言ヒ、又一説ニハ、古、此坂ノ麓ニ遊里アリシニ據リ此名ヲ負フト相傳フルモ、東鑑ニハ其名見エズ。此坂ハ所謂鎌倉七ロノ一ニシテ、鎌倉攻防ノ要路ニ當リ、元弘三年(皇紀一九九三)五月、新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来、屡々戰場トナレル所ナリ。
大正十五年三月建 鎌倉町青年團
假粧坂の入口には、東大寺で捕えられた平景清の石牢があります。また、假粧坂を登った所は葛原岡であり、処刑場でした。日野俊基はここで斬り殺されています。坂は大部分舗装され、僅かに一部分がもとの姿をとどめています。源氏山から扇が谷に続く屈曲した坂道、鎌倉七切り通しの一つで国の史跡に指定されている。
〔参考〕
鎌倉から西国へと通じる假粧坂は、頼朝の時代にいち早く整備された交通の要です。切り立った崖や道の真中に置かれたすり減った鎌倉石に往時の面影がよく残されています。假粧坂の名は、この場所で討ち取った大将の首に化粧をして首の検分を行った。化粧をした遊女が多かったなど、諸説があります。春に新緑、秋の紅葉が周囲の景観に映え美しい坂です。