• 41 假粧坂 けわいざか


碑の説明

氣生坂(けあいざか)又ハ形勢(けわい)(ざか)(つく)ル。(この)名稱(めいしょう)ハ、往時(おうじ)平家(へいけ)大将(たいしょう)討取(うちとり)リ、(その)(くび)假粧(けしょう)シテ實檢(じっけん)(そな)ヘシニ()(おき)ルト(いい)ヒ、(また)一説(いっせつ)ニハ、(いにしえ)此坂(このさか)(ふもと)遊里(ゆうり)アリシニ()此名(このな)()フト相傳(あいつたえ)フルモ、東鑑(あずまかがみ)ニハ(その)()()エズ。此坂(このさか)所謂(いわゆる)鎌倉(かまくら)(ひち)()(いつ)ニシテ、鎌倉(かまくら)攻防(こうぼう)要路(ようろ)(あた)リ、元弘(げんこう)三年(皇紀(こうき)一九九三)五月、新田(にった)義貞軍(よしさだぐん)鎌倉(かまくら)(うち)()以来(いらい)屡々(しばしば)戰場(せんじょう)トナレル(ところ)ナリ。

大正十五年三月建  鎌倉町青年團



假粧坂(けわいざか)の入口には、東大寺で捕えられた(とらえられた)(たいらの)景清(かげきよ)石牢(いしろう)があります。また、假粧坂(けわいざか)を登った所は葛原岡(くずはらがおか)であり、処刑場でした。日野(ひの)俊基(としもと)はここで()(ころ)されています。坂は大部分舗装され、(わず)かに一部分がもとの姿をとどめています。源氏山から扇が谷に続く屈曲した坂道、鎌倉七切り通しの一つで国の史跡に指定されている。


〔参考〕

鎌倉から西国へと通じる假粧坂は、頼朝の時代にいち早く整備された交通の要です。切り立った崖や道の真中に置かれたすり減った鎌倉石に往時の面影がよく残されています。假粧坂の名は、この場所で討ち取った大将の首に化粧をして首の検分を行った。化粧をした遊女が多かったなど、諸説があります。春に新緑、秋の紅葉が周囲の景観に映え美しい坂です。


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