藤原俊基朝臣ノ朝権恢復ヲ圖リテ成ラズ、元弘二年六月三日、北條高時の害二遭ヒ「秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露の恨や世に残るらん」ト永キ恨ヲ留メタルハ此ノ處ナリ。
大正十五年三月建 鎌倉町青年團
碑は源氏山公園内にあり、近くには葛原岡神杜があります。祭神は日野俊基。後醍醐天皇は、天皇親政を理想とし、上皇政治を廃止、日野資朝・同俊基らに命じて、北條政権打倒を図りますが、事は未然に洩れ、資朝は佐渡へ流罪、俊基は証拠不十分で放免、天皇は事件に関知せずと弁明し、事なきを得ました(正中の変)。その七年後、再度討幕計画は挫折、天皇は笠置山に難を避けて行幸、資朝は佐渡にて斬、俊基は葛原岡で刑死しました(元弘の変)。次の偶(仏徳・教理を讃美する四句から成るもの)は、俊基が死の間際に書き残したものです(『太平記』による)。
古来一句 古来の一句 無死無生 死もなく生もなし
万里雲尽 万里雲尽き 長江水清 長江の水清し
訳-――古来、人のいのちには死もなく生もなく、空の空なるものだという、人々のよく知る一句があります。まさにそのとおりだと思います。遥かなるかなたに続く雲がやがて尽きる処まで、揚子江の水が清く流れて空々漠々たるように。
〔参考〕
日野俊朝は、鎌倉幕府を倒そうとした朝廷方の忠臣。政権を後醍醐天皇の朝廷に取り戻そうと企て発覚し、幕府に捕らえられ、元弘元年(1332)葛原ヶ岡で処刑される。明治時代に従三位を贈られ、明治20年(1887)に葛ヶ岡神社が建ち祭られています。