• 43 藤原仲能之墓 ふじわらのなかよしのはか


碑の説明

此所(このところ)道智(どうち)(つか)(あるい)阿古(あこ)耶尼(やに)(つか)(つた)ヘラレシモ、(かい)蔵寺(ぞうじ)(でん)()リ、藤原(ふじはら)仲能(なかよし)墓所(ぼしょ)考察(こうさつ)セラル。仲能(なかよし)(じゅう)五位(ごい)()(さきの)能州(のうしゅう)大守(たいしゅ)ニシテ鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)評定(ひょうじょう)(しゅう)タリシガ、後年(こうねん)(かい)蔵寺(ぞうじ)中興(ちゅうこう)大壇越(だいだんおつ)トナリ、建長(けんちょう)八年十二月九日(じゃく)シ、道智禪(どうちぜん)()(とな)ヘラレシモノノ(ごと)(その)位牌(いはい)同寺(どうでら)現存(げんそん)ス。

昭和十一年三月建  鎌倉町青年團



葛原ヶ岡(くずはら おか)神社(じんじゃ)は、俊基(としもと)を祭神とする。その社の前に立つ碑がこれである。能州(のうしゅう)は能登の国。太守は長官。評定衆は、北條政権の時代に設置した役職。1225年、北條泰時(ほうじょうやすとき)が創設。合議制を採用したのである。北條氏以外、三善(みよし)氏、大江氏などの有力者を加え、15人程度で編成。独裁制のなかの民主的な制度である。泰時(やすとき)が公正無私の政治を志したことのあらわれである。大壇(だいだん)(おつ) 壇越(だんおつ)は今日の壇家(だんか)の意。発音注意。


〔参考〕

海蔵寺の開基は上杉氏定であって、応永元年(1394)に建立された寺です。応永から永享年間にかけて役40年間ほどは、扇谷上杉家の後ろだてによって、かなり大きな規模をもつ寺として榮たらしい。


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