• 44 蓮華寺阯 れんげじし


碑の説明

(れん)華寺(げじ)仁治(にんじ)元年(紀元(きげん)一九〇〇)北條経時(ほうじょうつねとき)創立(そうりつ)ニカゝリ、(そう)良忠(りょうちゅう)開山(かいざん)トセシガ、(かん)(げん)元年(紀元(きげん)一九〇三)(これ)材木(ざいもく)()(うつ)シ、寺號(じごう)光明寺(こうみょうじ)(あらた)メシ(よし)(つた)ヘラル。(また)一説(いっせつ)蓮華寺(れんげじ)経時(つねとき)菩提(ぼだい)(ため)建長(けんちょう)三年(紀元(きげん)一九一一)北條時(ほうじょうとき)(より)(これ)建立(こんりゅう)シ、(のち)弘安(こうあん)二年(紀元(きげん)一九三九)ノ(ごろ)武州(ぶしゅう)(うつ)セリトモイフ。(この)(たに)佐介(さすけ)(やつ)(とな)フ。

昭和九年三月  鎌倉町青年團建



仁治(にんじ)元年は1240年。経時は、泰時(やすとき)の孫。父の時氏が、28才で若死にしたため、泰時(やすとき)のあとをつぎ第4代執権となった。母は有名な松の下の(ぜん)()。彼女は経時(つねとき)と第五代執権時頼の2人を生んだ人。北條氏は将軍とはならず、それを補佐する 執権職にとどまり、しかし、政治の実権を握った。この間、朝廷の権力は衰微(すいび)の一途を辿(たど)りました。ナンバーツーにして、ナンバーワンであった。松下禅尼(まつのしたのぜんに)はあるひ、わが子が訪問することになったとき、障子の破れをつぎはぎして迎えたはなしは有名でです。それは、倹約の美徳を教え(さとす)すためでした。倹約は北條氏の治世の根本理念であり、尼は単なる個人道徳をわが子に説いたのではない。政治のありようを教えたのでです。今日の政治家、役人はもって教訓とすべきでしょう。(かみ)のおごりは(しも)、民の苦しみ(重税)。母は時頼(ときより)にそのことを教えたのです。


〔参考〕

法然上人の孫弟子、然阿良忠が鎌倉入りし、浄土宗の布教をしていた良忠のために4代執権北條経時が仁治元年(1240)に佐助ヶ谷に建てた。その後、寛元元年(1243)に材木座に移し光明寺と改名、以降歴代執権の帰依を得て、学問の道場として栄える。この石碑は蓮花寺阯と思われる佐介が谷に建てられていたが、藤沢~鎌倉線の開通に伴い、この場所に移されたものです。


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