連華寺ハ仁治元年(紀元一九〇〇)北條経時ノ創立ニカゝリ、僧良忠ヲ開山トセシガ、寛元元年(紀元一九〇三)之ヲ材木坐ニ遷シ、寺號ヲ光明寺ト改メシ由傳ヘラル。又一説ニ蓮華寺ハ経時ノ菩提ノ為、建長三年(紀元一九一一)北條時頼之ヲ建立シ、後弘安二年(紀元一九三九)ノ頃、武州ヘ遷セリトモイフ。此谷ヲ佐介ケ谷ト唱フ。
昭和九年三月 鎌倉町青年團建
仁治元年は1240年。経時は、泰時の孫。父の時氏が、28才で若死にしたため、泰時のあとをつぎ第4代執権となった。母は有名な松の下の禅尼。彼女は経時と第五代執権時頼の2人を生んだ人。北條氏は将軍とはならず、それを補佐する 執権職にとどまり、しかし、政治の実権を握った。この間、朝廷の権力は衰微の一途を辿りました。ナンバーツーにして、ナンバーワンであった。松下禅尼はあるひ、わが子が訪問することになったとき、障子の破れをつぎはぎして迎えたはなしは有名でです。それは、倹約の美徳を教え訓すためでした。倹約は北條氏の治世の根本理念であり、尼は単なる個人道徳をわが子に説いたのではない。政治のありようを教えたのでです。今日の政治家、役人はもって教訓とすべきでしょう。上のおごりは下、民の苦しみ(重税)。母は時頼にそのことを教えたのです。
〔参考〕
法然上人の孫弟子、然阿良忠が鎌倉入りし、浄土宗の布教をしていた良忠のために4代執権北條経時が仁治元年(1240)に佐助ヶ谷に建てた。その後、寛元元年(1243)に材木座に移し光明寺と改名、以降歴代執権の帰依を得て、学問の道場として栄える。この石碑は蓮花寺阯と思われる佐介が谷に建てられていたが、藤沢~鎌倉線の開通に伴い、この場所に移されたものです。