昭和五年金澤文庫傳存ニカカル佛書ノ奥書ヨリ發見サレ、漸ク世ニ知ラルルニ至リシ佐介文庫ハ、松谷文庫又ハ佐介松谷文庫トモ稱ヘ、金澤文庫ト同時代頃ノ創立ト推察セラルルモ、其創立者、所在位置、規模、存續期間等詳ナラズ。然レ共、北條氏ノ一族タル佐介氏其邸内ニ寺院ト文庫トヲ創建シ、其地名ヲ寺號ト文庫名トニ充テシモノナラン。此地今ニ松ケ枝又ハ松ヶ谷ノ傳唱アルヲ以テ、松谷寺及佐介文庫ハ共ニ此附近ニ所在セシモノト推定スル所以ナリ
昭和十五年三月建 鎌倉市青年團
文庫は図書館のこと。金沢文庫は北條氏の支族、北條実時によって創設されました。金沢を姓にしました。金沢氏は代々学問を重んじ、内外の書籍を広く集めました。「徒然草」を書いた兼好法師も、この地に来て住み金沢文庫に通っては勉強しました。彼は王朝文化の心酔者であつたから、北條氏の文化には、良い評価を与えていません。徒然草のなかに、鎌倉の海にはかつおという魚がとれる。土地の古老の言うところでは、「以前は、相当な高い身分の人の前に出ることはなかったし、下人も頭は食はなかった」と。このような下魚も時世がくだると、上流社会にまで入りこむことです。今は上等の魚だと言って、もてはやしているとの趣旨です。原文は次の通り。{鎌倉の海に、鰹といふ魚は、かの境(地方)には双なきもの(二つとないもの)にて、このごろ(最近)もてなす(もてはやす)ものなり。それも、鎌倉の年寄りの申しはべりしは、「この魚、おのれらが若かれし世までは、はかばかしき人(身分のよい人)の前へ出づることは、はべらざりき(ございませんでした)。頭は下部(身分低い者)も食はず、切捨てはべりしものなり」と申しき。か様のものも、世の末になれば、上様までも、入りたつわざ(こと)にはべるなり。(百十九段)}これはなにを意味するか、鰹は北條氏の文化を暗に言うのです。平安貴族の残した文化を鯛とするならば、北條氏のそれはかつおと言うかのごとき論評です。北条氏は、人民の負担を軽減するために、社寺の造営を控えたので、単純に京都と鎌倉を比較すべきではないと思われます。
〔参考〕
昭和五年、金沢文庫に伝えられた仏教書の奥書から発見されて、佐介文庫が世に明らかとなった。この文庫は松が谷文庫または佐介文庫とも言われています。