• 45 松谷寺及佐介文庫阯 しょうこくじおよびさすけぶんこし


碑の説明

昭和五年金澤文庫(かなざわぶんこ)傳存(でんぞん)ニカカル佛書(ぶちしょ)奥書(おくがき)ヨリ發見(ほつけん)サレ、(ようや)()()ラルルニ(いた)リシ佐介(たすけ)文庫(ぶんこ)ハ、松谷(まつがや)文庫(ぶんこ)又ハ佐介(たすけ)松谷(まつかや)文庫(ぶんこ)トモ(とな)ヘ、金澤(かなざわ)文庫(ぶんこ)同時代(どうじだい)(ごろ)創立(そうりつ)推察(すいさつ)セラルルモ、(その)創立者(そうりつしゃ)所在(しょざい)位置(いち)規模(きぼ)存續(ぞんぞく)期間(きかん)(とう)(つまび)ナラズ。(しか)(とも)北條(ほうじょう)()一族(いちぞく)タル佐介(さすけ)()(その)邸内(ていない)寺院(じいん)文庫(ぶんこ)トヲ創建(そうけん)シ、(その)地名(ちめい)寺號(じごう)文庫(ぶんこ)(めい)トニ()テシモノナラン。此地(このち)(いま)(まつ)()又ハ(まつ)()傳唱(でんしょう)アルヲ(もっ)テ、松谷寺(しょうこくじ)(および)佐介(たすけ)文庫(ぶんこ)(とも)(この)附近(ふきん)所在(しょざい)セシモノト推定(すいてい)スル所以(ゆえん)ナリ

昭和十五年三月建  鎌倉市青年團



文庫は図書館のこと。金沢文庫は北條氏の支族、北條実時(さねとき)によって創設されました。金沢を姓にしました。金沢氏は代々学問を重んじ、内外の書籍を広く集めました。「徒然草(つれづれぐさ)」を書いた(けん)好法師(こうほうし)も、この地に来て住み金沢文庫に通っては勉強しました。彼は王朝文化の心酔者であつたから、北條氏の文化には、良い評価を与えていません。徒然草(つれづれぐさ)のなかに、鎌倉の海にはかつおという魚がとれる。土地の古老(ころう)の言うところでは、「以前は、相当な高い身分の人の前に出ることはなかったし、下人(げにん)も頭は食はなかった」と。このような下魚も時世がくだると、上流社会にまで入りこむことです。今は上等の魚だと言って、もてはやしているとの趣旨です。原文は次の通り。{鎌倉の海に、鰹といふ(うを)は、かの境(地方)には双なきもの(二つとないもの)にて、このごろ(最近)もてなす(もてはやす)ものなり。それも、鎌倉の年寄りの申しはべりしは、「この魚、おのれらが若かれし世までは、はかばかしき人(身分のよい人)の前へ出づることは、はべらざりき(ございませんでした)。(かしら)下部(しもべ)(身分低い者)も食はず、切捨てはべりしものなり」と申しき。か様のものも、世の末になれば、上様(かみさま)までも、入りたつわざ(こと)にはべるなり。(百十九段)}これはなにを意味するか、鰹は北條氏の文化を暗に言うのです。平安貴族の残した文化を鯛とするならば、北條氏のそれはかつおと言うかのごとき論評です。北条氏は、人民の負担を軽減するために、社寺の造営を(ひか)えたので、単純に京都と鎌倉を比較すべきではないと思われます。


〔参考〕

昭和五年、金沢文庫に伝えられた仏教書の奥書から発見されて、佐介文庫が世に明らかとなった。この文庫は松が谷文庫または佐介文庫とも言われています。


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