• 46 問注所舊蹟 もんちゅうじょきゅうせき


碑の説明

元暦(げんりゃく)元年、源頼朝(みなもとのよりとも)幕府(ばくふ)東西(とうざい)(ひさし)()ツテ、訴訟(そしょう)裁断(さいだん)(ところ)()ス。(これ)問注所(もんちゅうじょ)(しょう)ス。()諸人(しょじん)群集(ぐんしゅう)シ、(とき)喧噪(けんそう)(わた)ルコトアルヲ(いと)ヒテ、正治(しょうじ)元年、頼家(よりいえ)(これ)邸外(ていがい)(うつ)ス。()()(すなわ)()遺蹟(いせき)ナリ。

大正六年三月建之  鎌倉町青年會



碑文の趣旨は、元暦元(1184)年、頼朝(よりとも)が大蔵御所内に裁判所として間注所を設置、正治元(1199)年、頼家(よりいえ)喧噪(けんそう)嫌悪(けんお)して、御所内に移したというものです。これを『吾妻鏡(あづまかがみ)』は次のように記述しています。元暦元年9月2日、乙亥(きのとい)。諸人の()(ろん)対決(たいけつ)の事、俊兼(としかね)、盛時等を相具(あいぐ)して之を召決し(かつ)は其の(ことば)(しる)せしめ、申し沙汰(さた)すべきの由、大夫属(たいふのさかん)入道善信(ぜんしん)に仰せらると云々。御亭の東酉の(ひさし)ニヶ間を点じて、其の所となし、問注所と号して額を打つと云々。正治元年4月1日、壬戊(みずのえいぬ)。問注所を郭外に建てられる。大夫属入道善信を以て執事となし、今日始めて其の沙汰(さた)あり。是故将軍の御時、営中(大蔵御所)に一所を点じ(選定)、訴論人を召し決せらるるの間(…なので)、諸人群集して、鼓騒を成し、無礼を現はすの條、頗る(すこぶ )狼籍の基なり。他所に於て、()()を行うべきかの由、内々評議あるの処、熊谷と久下(くげ)と境相論(所領の境界線争い)の事にて対決するの日、直実西侍(にしざむらい)に於て、鬢髪(びんぱつ)を除くの後、永く御所の儀を停止せられ、善信の家を以て其の所となし、今又別郭を新造せらると云々。碑は、頼家(よりいえ)喧噪(けんそう)嫌悪(けんお)して、問注所を外部に移したとありますが、『吾妻鏡(あづまかがみ)』は、頼朝(よりとも)が移したと記しています。即ち、建久三年(1192年)11月25日、頼朝の面前で、熊谷直実と叔父の久下(くげ)直光が所領の境界線をめぐって論争したとき、直実がにわかに髪を切って逐電したのをきっかけに、これを三善(みよし)善信(よしのぶ)(俗名康信)の私邸に移したとしています。そして正治元年1月13日、頼朝(よりとも)が死んで2ケ月半ほど経った4月1日、頼家の命により、問注所は再度移転したことになっています。両者のいずれが正確な史実であるかどうかは、コメントしないことにします。一の谷合戦の勇士、熊谷次郎直実は、平家の公達(あつ)(もり)を討ち、無常を感じて出家、敦盛(あつもり)の冥福を祈ったと『平家物語』は、直実を美化しています。一方『吾妻鏡(あづまかがみ)』は裁判が不公平だと怒り出し、まだ判決も出ないのに、髪を下ろして出家してしまった単純な熱血漢として描いています。


〔参考〕

問注所は鎌倉幕府の行政上の一機関で、訴訟・裁判のことを司るところです。元暦元年(1184)十月二十日、三好康信が初代の執事となり、大蔵幕府の東側に設けられた。最初は将軍が親裁していたが、のち門柱所が権限を持つようになった。


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