元暦元年、源頼朝、幕府東西ノ廂ヲ以ツテ、訴訟裁断ノ所卜為ス。之ヲ問注所ト稱ス。其ノ諸人群集シ、時ニ喧噪ニ渉ルコトアルヲ厭ヒテ、正治元年、頼家之ヲ邸外二遷ス。此ノ地即チ其ノ遺蹟ナリ。
大正六年三月建之 鎌倉町青年會
碑文の趣旨は、元暦元(1184)年、頼朝が大蔵御所内に裁判所として間注所を設置、正治元(1199)年、頼家が喧噪を嫌悪して、御所内に移したというものです。これを『吾妻鏡』は次のように記述しています。元暦元年9月2日、乙亥。諸人の訴論対決の事、俊兼、盛時等を相具して之を召決し且は其の詞を注せしめ、申し沙汰すべきの由、大夫属入道善信に仰せらると云々。御亭の東酉の廂ニヶ間を点じて、其の所となし、問注所と号して額を打つと云々。正治元年4月1日、壬戊。問注所を郭外に建てられる。大夫属入道善信を以て執事となし、今日始めて其の沙汰あり。是故将軍の御時、営中(大蔵御所)に一所を点じ(選定)、訴論人を召し決せらるるの間(…なので)、諸人群集して、鼓騒を成し、無礼を現はすの條、頗る狼籍の基なり。他所に於て、此の儀を行うべきかの由、内々評議あるの処、熊谷と久下と境相論(所領の境界線争い)の事にて対決するの日、直実西侍に於て、鬢髪を除くの後、永く御所の儀を停止せられ、善信の家を以て其の所となし、今又別郭を新造せらると云々。碑は、頼家が喧噪を嫌悪して、問注所を外部に移したとありますが、『吾妻鏡』は、頼朝が移したと記しています。即ち、建久三年(1192年)11月25日、頼朝の面前で、熊谷直実と叔父の久下直光が所領の境界線をめぐって論争したとき、直実がにわかに髪を切って逐電したのをきっかけに、これを三善善信(俗名康信)の私邸に移したとしています。そして正治元年1月13日、頼朝が死んで2ケ月半ほど経った4月1日、頼家の命により、問注所は再度移転したことになっています。両者のいずれが正確な史実であるかどうかは、コメントしないことにします。一の谷合戦の勇士、熊谷次郎直実は、平家の公達敦盛を討ち、無常を感じて出家、敦盛の冥福を祈ったと『平家物語』は、直実を美化しています。一方『吾妻鏡』は裁判が不公平だと怒り出し、まだ判決も出ないのに、髪を下ろして出家してしまった単純な熱血漢として描いています。
〔参考〕
問注所は鎌倉幕府の行政上の一機関で、訴訟・裁判のことを司るところです。元暦元年(1184)十月二十日、三好康信が初代の執事となり、大蔵幕府の東側に設けられた。最初は将軍が親裁していたが、のち門柱所が権限を持つようになった。