能員ハ頼朝ノ乳母比企禅尼ノ養子ナルガ、禅尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ。此ノ地比企ヶ谷ノ名アルモ之二基ク。能員ノ女、頼家ノ寵ヲ受ケ・若狭局ト稱シ、子一幡ヲ生ム。建仁三年、頼家疾ムヤ、母政子関西ノ地頭職ヲ分チテ、頼家ノ弟千幡ニ授ケントス。能員之ヲ憤リ、密ニ北條氏ヲ除カント謀ル。謀泄レテ卻ツテ北條氏ノ為一族此ノ地ニ於テ滅サル。
大正十二年三月 鎌倉町青年團建
以下に掲げる碑文は青年会(団)のものではありませんが、ご参考までにその冒頭を書き添えます。 妙本寺の住職の撰文で、原文は漢文です。一幡君袖塚の後方にあり、明治期のものです。 「史を按ずるに、頼朝に乳母有り。鎌倉に開府に及び、比企ヶ谷方八町を賜はり居す。其の甥判官能員、承りて後、出でて頼朝に仕ふ。乳母の故を以て、恩寵殊に渥つし。能員第五女若狭局、頼家の嬖する所となり一幡及び竹御所を生む。竹御所は即ち頼経の妃美なり、建仁3年9月2日、北條時政謀りて能員を殺し、且兵を発し、比企の第を囲み、遂に一幡を弑す若狭も亦第後の池に赴きて死せり。世に伝ふ、若狭の死するや、忽ち一大蛇となり、波を蹴り空に躍り、宛転悶乱、其の状甚だ怖るべしと。」なお、境内の一隅に、若狭の怨霊を鎮めるため、北條氏は蛇苦止堂を建立しました。そこには、現代の作品ですが、若狭局をモデルにした仏像が、ほほえみを浮かべて静かに佇んでいます。
〔参考〕
比企能員は娘である若狭の局が二代将軍源頼家の側室となり、頼家の嫡男一幡を生んでいたことから有力御家人となり、北條氏に拮抗する勢力を保持していた。頼朝の死後、能員は権力を独占しようとして北條時政と対立する。しかし建仁三年(1203)9月2日、仏事を理由に名越御亭に呼び出され殺害されてしまう。そしてこの日の内に一幡をはじめ一族ことごとく滅ばされ比企家は滅亡しまいた(比企の乱)