• 48 比企能員邸址 ひきよしかずていし


碑の説明

能員(よしかず)頼朝(よりとも)乳母比企禅尼(めのとひきのぜんに)養子(ようし)ナルガ、(ぜん)()(とも)()()(じゅう)セリ。()()比企(ひき)(やつ)()アルモ(これ)(もとず)ク。能員(よしかず)(むすめ)頼家(よりいえ)(ちょう)()ケ・若狭(わかさ)(のつぼね)(しょう)シ、()一幡(いちまん)()ム。建仁(けんにん)三年、頼家(よりいえ)()ムヤ、(はは)政子(まさこ)(かん)西(さい)地頭(じとう)(しき)(わか)チテ、頼家(よりいえ)(おとうと)千幡(せんまん)(さず)ケントス。能員(よしがず)(これ)(いか)リ、(みつ)北條(ほうじょう)()(のぞ)カント(はか)ル。(はかりごと)()レテ(かえ)ツテ北條(ほうじょう)()(ため)一族(いちぞく)()()(おい)(ほろぼ)サル。

大正十二年三月  鎌倉町青年團建



以下に掲げる碑文は青年会(団)のものではありませんが、ご参考までにその冒頭を書き添えます。  妙本寺(みょうほんじ)の住職の撰文で、原文は漢文です。一幡(いちはた)(ぎみ)袖塚(そでづか)の後方にあり、明治期のものです。    「史を按ずるに、頼朝(よりとも)に乳母有り。鎌倉に開府に及び、比企(ひき)(やつ)(かた)八町を賜はり居す。其の(おい)判官能員、承りて後、出でて頼朝(よりとも)に仕ふ。乳母の故を以て、恩寵(おんちょう)(こと)()つし。能員第五女(だいごじょ)若狭局(わかさのつぼね)頼家(よりいえ)(へい)する所となり一幡及び竹御所(たけごしょ)を生む。竹御所は即ち頼経(よりつね)妃美(ひみ)なり、建仁3年9月2日、北條時政謀りて能員を殺し、(かつ)兵を発し、比企の(てい)を囲み、遂に一幡を(しい)す若狭も亦第後(ていご)の池に赴きて死せり。世に伝ふ、若狭(わかさ)の死するや、忽ち一大蛇となり、波を()り空に(おど)り、宛転悶乱(あててんもんらん)、其の状(はなは)(おそ)るべしと。」なお、境内(けいだい)の一隅に、若狭の怨霊(おんりょう)(しず)めるため、北條氏は蛇苦止堂(じゃくしどう)を建立しました。そこには、現代の作品ですが、若狭局(わかさのつぼね)をモデルにした仏像が、ほほえみを浮かべて静かに(たたず)んでいます。


〔参考〕

比企能員は娘である若狭の局が二代将軍源頼家の側室となり、頼家の嫡男一幡を生んでいたことから有力御家人となり、北條氏に拮抗する勢力を保持していた。頼朝の死後、能員は権力を独占しようとして北條時政と対立する。しかし建仁三年(1203)9月2日、仏事を理由に名越御亭に呼び出され殺害されてしまう。そしてこの日の内に一幡をはじめ一族ことごとく滅ばされ比企家は滅亡しまいた(比企の乱)


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