此地ハ比企谷新釈迦堂・即将軍源頼家ノ女ニテ、将軍藤原頼経ノ室ナル竹御所夫人の廟アリシ處ニテ、當堂ノ供僧ナル権律師仙覺ガ万葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ。今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ、適二堂ノ須弥壇ノ直下二當レリ。堂ハ恐ラクハ南面シ、僧坊ハ疑ハ西面シタリケム。西方崖下ノ窟ハ仙覺等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ。悉シクハ「萬葉集新攷」附録「萬葉集雑攷」ニ言ヘリ。
昭和五年二月 鎌倉町青年団建碑
この碑文に限り、鎌倉師範の教授ではなく、井上通泰の撰文です。井上通泰は柳田国男の実兄。眼科医・井上家の養子となった人で、万葉研究の権威。菅虎樺は漱石の友人であり、当代の高名な書家です。ゆっくりと味読してください。なお、菅虎雄に師事した大仏次郎は、亡父の墓の文字をかれに依頼しました。寿福寺にある野尻政助之墓とあるのがそれです。妙本寺は、もと比企能員の邸のあったところ、門前に一族を語る碑は(48.比企能員邸)をご覧ください。
〔参考〕
今の妙本寺の本堂に向かって左奥に、比企谷新釈迦堂という廟があった。これは竹の御所といわれた女性の霊をまつったところ。竹の御所は将軍頼家と若狭の局との間に生まれた女子。実朝の死後、四代将軍藤原頼常が鎌倉にきて13歳になったとき、竹の御所28歳で頼常の室となった。天福二年(1234)出産したが不幸にして死産、翌日32歳で死去した。