• 49 萬葉集研究遺跡 まんようしゅうけんきゅういせき


碑の説明

此地(このち)比企(ひき)(がやつ)新釈迦堂(しんしゃかどう)即将軍源頼家(すなわちしょうぐんみなもとのよりいえ)(むすめ)ニテ、将軍藤原頼(しょうぐんふじわらより)(つね)(しつ)ナル(たけ)御所(ごしょ)夫人(ふじん)(びょう)アリシ(ところ)ニテ、當堂(とうどう)()(そう)ナル権律師仙覺(ごんりっしせんがく)万葉集(まんようしゅう)研究(けんきゅう)偉業(いぎょう)()ゲシハ(じつ)(その)僧坊(そうぼう)ナリ。(いま)夫人(ふじん)墓標(ぼひょう)トシテ大石(たいせき)()ケルハ、適二堂(たまにどう)(しゅ)弥壇(みだん)直下(ちょっか)(あた)レリ。(どう)(おそ)ラクハ南面(なんめん)シ、僧坊(そうぼう)(うたごうらく)西面(せいめん)シタリケム。西方(せいほう)崖下(がんか)(くつ)仙覺(せんがく)(とう)代々(だいだい)()(そう)埋骨處(まいこつしょ)ナラザルカ。(ことごと)シクハ「(まん)(よう)集新攷(しゅうしんこう)附録(ふろく)萬葉集雑攷(まんようしゅうざつこう)」ニ()ヘリ。

昭和五年二月  鎌倉町青年団建碑



この碑文(ひぶん)に限り、鎌倉(かまくら)師範(しはん)の教授ではなく、井上(いのうえ)通泰(つうたい)(せん)(ぶん)です。(いの)(うえ)通泰(つうたい)柳田国男(やなぎたくにお)の実兄。眼科医(がんかい)井上家(いのうえけ)の養子となった人で、万葉(まんよう)研究(けんきゅう)の権威。(すが)虎樺は漱石(そうせき)の友人であり、当代の高名(こうめい)な書家です。ゆっくりと味読(みどく)してください。なお、菅虎雄(すがとらお)師事(しじ)した大仏(おさなぎ)次郎(じろう)は、亡父(ぼうふ)の墓の文字をかれに依頼しました。寿(じゅ)(ふく)()にある野尻政助之墓とあるのがそれです。妙本寺(みょうほんじ)は、もと比企(ひき)能員(よしがず)(やしき)のあったところ、門前に一族を語る()は(48.比企(ひき)能員邸(よしかずてい))をご覧ください。


〔参考〕

今の妙本寺の本堂に向かって左奥に、比企谷新釈迦堂という廟があった。これは竹の御所といわれた女性の霊をまつったところ。竹の御所は将軍頼家と若狭の局との間に生まれた女子。実朝の死後、四代将軍藤原頼常が鎌倉にきて13歳になったとき、竹の御所28歳で頼常の室となった。天福二年(1234)出産したが不幸にして死産、翌日32歳で死去した。


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