此所ハ佐竹四郎秀義以降、代々ノ屋敷跡ト云フ。昔當所二佐竹氏ノ霊社アリシガ、後年、村内天王社ニ合祀ス。後ノ山ヲ佐竹山ト呼ブ。其ノ形、扇ノ地紙二似テ、中ニ三本ノ疇アリ。左右ヲ合テ五本骨ノ如シ。
昭和七年三月建 鎌倉町青年團
安国論寺の近くに佐竹氏の遺跡があり、現在は大宝寺。前庭に長い竿が立っています。先端に月を配した鉄扇が取りつけられています。頼朝が佐竹隆義に与えたものです。勿論今あるものは、本物ではありません(住職の談)。この鉄扇にまつわる史話を『吾妻鏡』から引用しましょう。 文治五年(1189)、七月廿六日、宇都宮を立たたしめ給ふの処、佐竹四郎隆義、常陸国より追って参じ加はる。しかして佐竹の持たしむる所の旗は、無文の白旗なり。二品(頼朝)之を咎めしめ給ふ。御旗と等しくすべからざるの故なり。よって御扇(月を出す)を佐竹に賜はり、旗の上に付くべきの由仰せらる。佐竹御旨に随ひて之を付くと云々。 頼朝の奥州攻めに際し、佐竹氏は源氏の白旗を翻して宇都宮に駆けつけました。頼朝はそれを許さず、代りに月を描いた扇を与え、佐竹氏はこれを白旗の上につけたという記事です。大宝寺の鉄扇はその記念、青年団の碑文が触れませんので補いました。なお、寺院の背後に、佐竹氏の遠祖新羅三郎義光の墓があります。また前記の鉄扇は危険防止のため、最近撤去されました。
〔参考〕
治承四年(1180)頼朝が源氏再興の旗をあげたとき、同じく源家の出である佐竹義政は頼朝に味方せせず、常陸(茨城県)にあって、むしろ頼朝の背後をおびやかす勢いを示した。頼朝は富士川の合戦で平家を撃退するや、直ちに鎌倉に戻り佐竹氏討伐の軍を起こし義政を殺した。その甥にあたる佐竹秀義は奥州へ逃げたが、後になって頼朝に降伏した。この地は秀義が鎌倉に居を得て屋敷をいとなんだところ。