• 50 佐竹屋敷跡 さたけやしきあと


碑の説明

此所(このところ)佐竹四郎(さたけのしろう)(ひで)(よし)以降(このかた)代々(だいだい)屋敷(やしき)(あと)()フ。昔當所(むかしとうしょ)佐竹(さたけ)()霊社(れいしゃ)アリシガ、後年(こうねん)村内(そんない)天王社(てんのうしゃ)合祀(ごうし)ス。(うしろ)(やま)佐竹山(さたけやま)()ブ。(その)(かたち)(おうぎ)地紙(じがみ)()テ、(なか)三本(さんぼん)(ちゅう)アリ。左右(さゆう)(あわせ)五本(ごほん)(ほね)(ごと)シ。

昭和七年三月建  鎌倉町青年團



安国論寺(あんこくろんじ)の近くに佐竹(さたけ)()の遺跡があり、現在は大宝寺(だいほうじ)前庭(ぜんてい)に長い竿(さお)が立っています。先端に月を配した鉄扇(てつせん)が取りつけられています。頼朝(よりとも)佐竹(さたけ)隆義(たかよし)に与えたものです。勿論(もちろん)(いま)あるものは、本物ではありません(住職の談)。この鉄扇(てっせん)にまつわる史話(しわ)を『吾妻鏡(あづまかがみ)』から引用しましょう。  文治(ぶんじ)五年(1189)、七月廿六日、宇都宮を立たたしめ(たも)ふの(ところ)佐竹(さたけ)四郎(しろう)隆義(たかよし)常陸国(ひたちのくに)より追って参じ加はる。しかして佐竹(さたけ)()たしむる(ところ)(はた)は、無文(むぶん)白旗(しろはた)なり。二品(にしな)(頼朝(よりとも))(これ)(とが)めしめ(たも)ふ。御旗(みはた)(ひと)しくすべからざるの故なり。よって御扇(おおうぎ)((つき)(いだ)す)を佐竹(さたけ)(たま)はり、(はた)(うえ)()くべきの(よし)(おお)せらる。佐竹(さたけ)御旨(ぎょし)(したが)ひて(これ)()くと云々(うんぬん)。 頼朝(よりとも)奥州(おうしゅう)()めに(さい)し、佐竹(さたけ)()源氏(げんじ)白旗(しろはた)(ひるがえ)して宇都宮に()けつけました。頼朝(よりとも)はそれを許さず、代りに月を描いた扇を与え、佐竹(さたけ)()はこれを白旗(しろはた)(うえ)につけたという記事です。大宝寺(だいほうじ)鉄扇(てっせん)はその記念、青年団の碑文(ひぶん)が触れませんので補いました。なお、寺院(じいん)背後(はいご)に、佐竹(さたけ)()遠祖(えんそ)新羅(しらら)三郎(さぶろう)義光(よしみつ)の墓があります。また前記の鉄扇(てっせん)は危険防止のため、最近撤去されました。


〔参考〕

治承四年(1180)頼朝が源氏再興の旗をあげたとき、同じく源家の出である佐竹義政は頼朝に味方せせず、常陸(茨城県)にあって、むしろ頼朝の背後をおびやかす勢いを示した。頼朝は富士川の合戦で平家を撃退するや、直ちに鎌倉に戻り佐竹氏討伐の軍を起こし義政を殺した。その甥にあたる佐竹秀義は奥州へ逃げたが、後になって頼朝に降伏した。この地は秀義が鎌倉に居を得て屋敷をいとなんだところ。


<< 前のページへ次のページへ >>