• 51 日蓮上人草庵阯 にちれんしょうにんそうあんし


碑の説明

(けん)(ちょう)五年(皇紀(こうき)一九一三)日蓮(にちれん)上人(しょうにん)房州(ぼうしゅう)小湊(こみなと)ヨリ(きた)リ、此地(このち)小菴(しょうあん)(いとな)ミ、(はじ)メテ法華經(ほっけきょう)首題(しゅだい)(とな)ヘ、正嘉(しょうか)元年(がんねん)皇紀(こうき)一九一七)ヨリ文應(ぶんおう)元年(がんねん)皇紀(こうき)一九二〇)ニ(およ)巌窟内(がんくつない)(こも)リ「立正安國論(りっしょうあんこくろん)一巻(いっかん)編述(へんじゅつ)セシハ(すなわち)此所(このところ)ナリト()フ。

昭和十四年三月建  鎌倉町青年團



安国論寺(あんこくろんじ)の近くに佐竹(さたけ)()の遺跡があり、現在は大宝寺(だいほうじ)前庭(ぜんてい)に長い竿(さお)が立っています。先端に月を配した鉄扇(てつせん)が取りつけられています。頼朝(よりとも)佐竹(さたけ)隆義(たかよし)に与えたものです。勿論(もちろん)(いま)あるものは、本物ではありません(住職の談)。この鉄扇(てっせん)にまつわる史話(しわ)を『吾妻鏡(あづまかがみ)』から引用しましょう。  文治(ぶんじ)五年(1189)、七月廿六日、宇都宮を立たたしめ(たも)ふの(ところ)佐竹(さたけ)四郎(しろう)隆義(たかよし)常陸国(ひたちのくに)より追って参じ加はる。しかして佐竹(さたけ)()たしむる(ところ)(はた)は、無文(むぶん)白旗(しろはた)なり。二品(にしな)(頼朝(よりとも))(これ)(とが)めしめ(たも)ふ。御旗(みはた)(ひと)しくすべからざるの故なり。よって御扇(おおうぎ)((つき)(いだ)す)を佐竹(さたけ)(たま)はり、(はた)(うえ)()くべきの(よし)(おお)せらる。佐竹(さたけ)御旨(ぎょし)(したが)ひて(これ)()くと云々(うんぬん)。 頼朝(よりとも)奥州(おうしゅう)()めに(さい)し、佐竹(さたけ)()源氏(げんじ)白旗(しろはた)(ひるがえ)して宇都宮に()けつけました。頼朝(よりとも)はそれを許さず、代りに月を描いた扇を与え、佐竹(さたけ)()はこれを白旗(しろはた)(うえ)につけたという記事です。大宝寺(だいほうじ)鉄扇(てっせん)はその記念、青年団の碑文(ひぶん)が触れませんので補いました。なお、寺院(じいん)背後(はいご)に、佐竹(さたけ)()遠祖(えんそ)新羅(しらら)三郎(さぶろう)義光(よしみつ)の墓があります。また前記の鉄扇(てっせん)は危険防止のため、最近撤去されました。


〔参考〕

建長五年(1253)日蓮32歳の時、安房の国(千葉県)から鎌倉の松葉ヵ谷に来て「立正安国論」を起こした草庵が、松葉ヵ谷の安国論寺にあったといわれています。一方、妙法寺もまた、日蓮上人が鎌倉で初めて草庵を結んだ場所ともいわれ、そのほかに、長勝寺も草庵を結んだ場所といわれています。


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