• 53 元八幡 もとはちまん


碑の説明

鶴岡(つるがおか)八幡宮(はちまんぐう)ハ「東鑑(あずまかがみ)」ニ、「本社(ほんしゃ)伊予(いよ)(のかみ)源頼義(みなもとのよりよし)(ちょく)(ほうじ)安倍(あべ)(さだ)(とう)征伐(せいばつ)(とき)丹祈(たんき)旨有(むねあり)テ、(こう)(へい)六年(あき)八月、(ひそか)(いわ)清水(しみず)八幡(はちまん)勸請(かんじょう)シ、瑞籬(みずがき)()當國(とぐごく)由比(ゆひ)(ごう)()ツ。(えい)(ほう)元年(がんねん)二月、陸奥(むつ)(のかみ)義家(よしいえ)修復(しゅうふく)(くわ)フ」トアルハ(すなわ)此處(ここ)ニシテ、鶴岡(つるがおか)トハ昔時此地(せきじこのち)()ビタルナラム。(その)()治承(じしょう)四年十月十二日、源頼朝(みなもとのよりとも)祖宗(そそう)(あが)メンタメ、小林(こばやし)ノ、(ごう)(きた)(やま)(てん)ジテ(みや)(びょう)(かま)へ、由比(ゆい)(みや)此處(ここ)(うつ)(たてまつ)ル。()現時(げんじ)八幡宮(はちまんぐう)ニテ、「東鑑(あずまかがみ)」二、「治承(じしょう)四年十月七日、頼朝先(よりともま)(はるか)(つる)(おか)八幡宮(はちまんぐう)(はい)(たてまつ)ル」トアルハ、由比(ゆい)(はま)(みや)ナリ。遷宮(せんぐう)(のち)鶴ヶ岡(つるがおか)八幡宮(はちまんぐう)()ヒシハ、舊称(きゅうしょう)(したが)ヘルナリ。爾来此處(じらいこのところ)(もと)八幡(はちまん)(しょう)ス。

昭和三年三月建之 鎌倉町青年團



語釈(ごしゃく)]丹祈(たんき)丹精(たんせい)を込めての祈り。勧請(かんじょう)神仏(しんぶつ)分霊(ぶんれい)をお迎えすること。瑞離(みずかま)神杜(じんじゃ)周囲(しゅうい)(かき)(てん)ジ=(えら)(さだ)めて。(みや)(びょう)=みたまや。爾来(じらい)=それ以来(ぜん)九年の(えき)(1054年-1062年)の後、康平(こうへい)六(1063)年、頼義(よりよし)鎌倉(かまくら)(よぎ)り、この地に八幡宮(はちまんぐう)を造営しました。嫡子(ちゃくし)義家(よしいえ)永保(えいほう)元(1081)年、これを修復、さらに治承(じしょう)四(1180)年、嫡孫(ちゃくそん)頼朝(よりとも)は、これを(うつ)して(つる)(おか)新造(しんぞう)しました。八幡神(はちまんしん)源氏(げんじ)武神(ぶしん)であり、(はと)神霊(しんれい)使鳥(しちょう)といわれております。それで、本殿(ほんでん)掲額(けいがく)八幡宮(はちまんぐう)の「八」の文字は、二羽の鳩の絵文字になっています。蛇足ながら『吾妻鏡(あづまかがみ)』と東鑑(あずまかがみ)は同一の書物です。前者は鏡がものをあるがままに映すように、先人の営みを明らかにしたもの、即ち東国(とうごく)歴史(れきし)意味(いみ)します。後者は東国(とうごく)の歴史を()て、武士はこれを(かがみ)(手本(てほん))とせよ、という意味になります。


〔参考〕

源頼義が康平六年(1063)に鎌倉に歓請した八幡宮は由比の郷の鶴が岡に建てられた。今は大きな銀杏の木かげに小さな朱塗りのお宮があるだけ。頼朝が現在の所(小林の郷)に移建するまで約100年、源氏ゆかりの地方武士によって守られてきました。現在の鶴岡八幡宮は小林の郷にあるが鶴岡の名をそのまま伝え残しています。


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