鶴岡八幡宮ハ「東鑑」ニ、「本社ハ伊予守源頼義、勅ヲ奉テ安倍ノ貞任征伐ノ時、丹祈ノ旨有テ、康平六年秋八月、潜ニ石清水八幡ヲ勸請シ、瑞籬ヲ當國由比ノ郷二建ツ。永保元年二月、陸奥守義家修復ヲ加フ」トアルハ即チ此處ニシテ、鶴岡トハ昔時此地ヲ呼ビタルナラム。其後、治承四年十月十二日、源頼朝祖宗ヲ崇メンタメ、小林ノ、郷北ノ山ヲ点ジテ宮ノ廟ヲ構へ、由比ノ宮ヲ此處二遷シ奉ル。之レ現時ノ八幡宮ニテ、「東鑑」二、「治承四年十月七日、頼朝先ヅ遥ニ鶴ヶ岡八幡宮ヲ拝シ奉ル」トアルハ、由比ヶ濱ノ宮ナリ。遷宮ノ後モ鶴ヶ岡八幡宮ト云ヒシハ、舊称二従ヘルナリ。爾来此處ヲ元八幡ト称ス。
昭和三年三月建之 鎌倉町青年團
「語釈]丹祈=丹精を込めての祈り。勧請=神仏の分霊をお迎えすること。瑞離=神杜の周囲の垣。点ジ=選び定めて。宮ノ廟=みたまや。爾来=それ以来前九年の役(1054年-1062年)の後、康平六(1063)年、頼義は鎌倉を過り、この地に八幡宮を造営しました。嫡子義家は永保元(1081)年、これを修復、さらに治承四(1180)年、嫡孫、頼朝は、これを遷して鶴ヶ岡に新造しました。八幡神は源氏の武神であり、鳩は神霊の使鳥といわれております。それで、本殿掲額の八幡宮の「八」の文字は、二羽の鳩の絵文字になっています。蛇足ながら『吾妻鏡』と東鑑は同一の書物です。前者は鏡がものをあるがままに映すように、先人の営みを明らかにしたもの、即ち東国の歴史を意味します。後者は東国の歴史を以て、武士はこれを鑑(手本)とせよ、という意味になります。
〔参考〕
源頼義が康平六年(1063)に鎌倉に歓請した八幡宮は由比の郷の鶴が岡に建てられた。今は大きな銀杏の木かげに小さな朱塗りのお宮があるだけ。頼朝が現在の所(小林の郷)に移建するまで約100年、源氏ゆかりの地方武士によって守られてきました。現在の鶴岡八幡宮は小林の郷にあるが鶴岡の名をそのまま伝え残しています。