• 55 辨  谷 べんがやつ


碑の説明

元享(げんこう)元年、相模(さがみの)(かみ)北條(ほうじょう)高時(たかとき)創建(そうけん)セシ金剛山(こんごうざん)(すう)壽寺(しゅじ)ハコノ地域(ちいき)()リシナリ。道興(どうこう)(じゅん)(こう)ノ「廻國(かいこく)雑記(ざっき)」ニ()セシ紅谷(べにがやつ)ト、「田代系圖(たしろけいず)」ニ()千葉(ちばの)(すけ)敷地(しきち)トスル。(べつ)(がやつ)トハ、(とも)(べん)(がやつ)(おな)ジトスル(せつ)アルモ(つまびらか)ナラズ。

昭和七年三月建   鎌倉町青年團



元享(げんこう)元年」1321年 「北条高時(ほうじょうだかとき)」(1303-33)第14代執権(しっけん)1333年東勝寺(とうしょうじ)にて自刃(じじん)。准后(じゅんごう)正式には(じゅん)三后(さんごう)という。親王(しんのう)諸王(しょおう)女御(にょうご)外祖(そとそ)父母(ふぼ)名臣(めいしん)たちを優遇(ゆうぐう)する称号。安徳帝(あんとくてい)外祖(そとそ)父母(ふぼ)清盛(きよもり)夫妻(ふさい)(じゅん)三后(さんごう)です。廻国(かいこく)雑記(ざっき)応仁(おうにん)の乱(1467~1477)により、京都は焦土と化し、摂政(せっしょう)以下(いか)公卿(くぎょう)の多くは地方に遁れました。道興(どうこう)北陸(ほくりく)関東(かんとう)奥羽(おうう)遊歴(ゆうれき)しこの書を(あら)わしました。 中世には多くの紀行文学が生まれました。「関東(かんとう)紀行(きこう)」・「十六夜(いざよい)日記(にっき)」など。紅谷 明治時代、この辺りは住宅地となり、夏には避暑や海水浴客に間借し(月極)をしました。夏目(なつめ)漱石(そうせき)はこの()に妻子を伴い、海水浴に興じました。その作品の「こころ」(1914年)には、この付近の海岸が舞台となっています。ー学生(がくせい)である「(わたし)」と「先生(せんせい)」との出会(であ)いの場面(ばめん)に、この海岸(かいがん)設定(せってい)されています。


〔参考〕

この碑が立っている地域に、北條高時が元亨元年(1321)に崇寿寺を創建した。臨済宗に属し、元弘三年に北條貞時の13回忌の供養が行われときは当寺から13人もの僧が参じていたという、寺はかなりの規模を持っていたと思われる。いつ廃寺したか不明。


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