• 56 和賀江島 わかえじま


碑の説明

和賀(わか)トハ(いま)材木座(ざいもくざ)古名(こみょう)ニシテ、()()往昔(おうせき)伐木運湊(ばつぼくうんそう)(みなと)タリシヨリ、ヤガテ(いま)()()フニ(いた)レルナリ。和賀(わが)江嶋(えじま)ハ、()和賀(わか)(こう)(こう)(やく)スル築堤(ちくてい)()ヒ、(いま)(へだた)ル六百九十余年ノ(むかし)貞永(じょうえい)元年、勧進聖人往(かんじんしょうにんおう)阿彌陀佛(あみだぶつ)申請(しんせい)(まか)セ、平盛網(たいらのもりつな)(これ)(とく)シテ七月十五日起工(きこう)、八月九日竣工(しゅんこう)セルモノナリ。

大正十五年三月建  鎌倉町青年團



当時の鎌倉は、漁民(ぎょみん)老農(ろうのう)が目立つ寂しい農漁村に過ぎなかったことが(うかが)われる記述です。それを否定する説もありますが、頼朝(よりとも)がこの地を武家政権の拠点としたことにより、以後、急速に都市化が進みます。大蔵(おおくら)御所(ごしょ)鶴岡(つるおか)八幡宮(はちまんぐう)(しょう)長寿院(ちょうじゅいん)などの造営、御家人の住居の建築などなど。そのために欠かせないものは木材であり、食糧・日常生活の物資の供給ですが、これらの多くは、和賀(わが)江嶋(えじま)に運び込まれました。しかし、この港は波が荒く、船頭は接岸に苦しみました。そこで、築堤(ちくてい)()ってこれを防ごうと、貞永(じょうえい)元年七月一二日、今日、(かん)(じん)(しょう)(にん)諸国(しょこく)遍歴(へんれき)して寄付を仰ぐ僧)(おう)阿弥(あみ)陀仏(だぶつ)僧侶(そうりょ)名前(なまえ))の申請につきて、舟船(しょうせん)(わずらひ)なからんがため、和賀(わか)江嶋(えじま)(きず)くべきの(よし)云々(うんぬん)武州(ぶしゅう)執権(しっけん)北條泰時(ほうじょうやすとき)(こと)御歓喜(おかんき)ありて、合力(ごうりょく)せしめ(たも)ふ(泰時(やすとき)殿(どの)も進んでご協力なさった)と云々(うんぬん)。 同年八月九日、和賀(わが)江嶋(えじま)(その)(こう)(おわ)ふ。 よって尾藤(びとう)左近(さこん)入道(にゅうどう)景綱(かげつな))、(たいらの)三郎(さぶろう)左右(さう)衛門(えもん)(じょう)盛綱(もりつな))、諏方(すわの)兵衛(ひょうえ)(のじょう)盛重(もりしげ)御使(ぎょし)として(じゅん)(けん)すと云々(うんぬん)。(「吾妻鏡(あづまかがみ)」) (おう)阿弥(あみ)陀仏(だぶつ)提案(ていあん)泰時(やすとき)は喜び、自ら先頭に立って岩石を運んだとあります。 工事は迅速に進み、僅か二八日間で完成しました(旧暦では各月(かくつき)とも三十日) しかし、なおかつ接岸はままならず、危険が伴い、房総方面からの物資の輸送にも不便でした。そこで、波静かな六浦港(むつうらこう)を活用することとし、朝比奈(あさひな)切通(きりどうし)の開削が始まりました。このときの泰時(やすとき)は、(すい)(ろう)()(むち)()って自ら土石を運びました。 かくしてその翌年、仁治(にんじ)三(一二四二)年六月一五日、泰時(やすとき)精励(せいれい)刻苦(こっく)の生涯を終えました。行年(ぎょうねん)六十。その墓は、大船の(じょう)(えい)()泰時(やすとき)が妻の母のために建てた寺)にあります。 後方の山中には、木曽(きそ)義高(よしたか)首塚(くびづか)があります。


〔参考〕

当時の鎌倉は人口15万人、日本の大中心都市であったから、陸上ばかりでなく、海上を物資の輸送にあてる船の数も多く不自由を感じていた。往阿弥陀佛は貞永元年(1232)築島の工事を幕府に申請した。7月15日に始められた工事は8月9日に完成、それ以来鎌倉への海運はきわめて便利になりました。


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