和賀トハ今ノ材木座ノ古名ニシテ、此ノ地往昔、伐木運湊ノ港タリシヨリ、ヤガテ今ノ名ヲ負フニ至レルナリ。和賀江嶋ハ、其ノ和賀ノ港ロヲ扼スル築堤ヲ言ヒ、今ヲ距ル六百九十余年ノ昔、貞永元年、勧進聖人往阿彌陀佛ガ申請ニ任セ、平盛網之ヲ督シテ七月十五日起工、八月九日竣工セルモノナリ。
大正十五年三月建 鎌倉町青年團
当時の鎌倉は、漁民や老農が目立つ寂しい農漁村に過ぎなかったことが窺われる記述です。それを否定する説もありますが、頼朝がこの地を武家政権の拠点としたことにより、以後、急速に都市化が進みます。大蔵御所・鶴岡八幡宮、勝長寿院などの造営、御家人の住居の建築などなど。そのために欠かせないものは木材であり、食糧・日常生活の物資の供給ですが、これらの多くは、和賀江嶋に運び込まれました。しかし、この港は波が荒く、船頭は接岸に苦しみました。そこで、築堤を以ってこれを防ごうと、貞永元年七月一二日、今日、勧進聖人(諸国を遍歴して寄付を仰ぐ僧)往阿弥陀仏(僧侶の名前)の申請につきて、舟船の煩なからんがため、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州(執権北條泰時)殊に御歓喜ありて、合力せしめ給ふ(泰時殿も進んでご協力なさった)と云々。 同年八月九日、和賀江嶋其功を終ふ。 よって尾藤左近入道(景綱)、平三郎左右衛門尉(盛綱)、諏方兵衛尉(盛重)御使として巡検すと云々。(「吾妻鏡」) 往阿弥陀仏の提案を泰時は喜び、自ら先頭に立って岩石を運んだとあります。 工事は迅速に進み、僅か二八日間で完成しました(旧暦では各月とも三十日) しかし、なおかつ接岸はままならず、危険が伴い、房総方面からの物資の輸送にも不便でした。そこで、波静かな六浦港を活用することとし、朝比奈切通の開削が始まりました。このときの泰時は、衰老の身を鞭打って自ら土石を運びました。 かくしてその翌年、仁治三(一二四二)年六月一五日、泰時は精励刻苦の生涯を終えました。行年六十。その墓は、大船の常栄寺(泰時が妻の母のために建てた寺)にあります。 後方の山中には、木曽義高の首塚があります。
〔参考〕
当時の鎌倉は人口15万人、日本の大中心都市であったから、陸上ばかりでなく、海上を物資の輸送にあてる船の数も多く不自由を感じていた。往阿弥陀佛は貞永元年(1232)築島の工事を幕府に申請した。7月15日に始められた工事は8月9日に完成、それ以来鎌倉への海運はきわめて便利になりました。