• 58 畠山重保邸址 はたけやまのしげやすていし


碑の説明

畠山(はたけやまの)重保(しげやす)重忠(しげただ)長子(ちょうし)ナルガ、(かつ)北條(ほうじょう)時政(ときまさ)婿(むこ)平賀(ひらが)(とも)(まさ)忿争(ふんそう)ス。(とも)(まさ)()餘怨(よえん)(たくわ)ヘ、重保父子(しげやすふし)時政(ときまさ)(ざん)ス。時政(ときまさ)モト重忠(しげただ)(より)(とも)薨後(こうご)()遺言(ゆいごん)()リ、頼家(よりいえ)保護(ほご)スルヲ()(これ)()ミ、(こと)()リテ(これ)(のぞ)カント(はっ)ス。(すなわ)(さね)(とも)(めい)(もっ)(へい)(つかわ)シテ重保(しげやす)(やしき)(かこ)ム。重保(しげやす)奮闘(ふんとう)(これ)()ス、(とき)(げん)(きゅう)二年六月二十二日。()()(すなわち)()(てい)()ナリ、()(あくる)重忠(しげただ)(また)(いつわ)(さそ)ハレテ武蔵國(むさしのくに)二俣川(ふたまたがわ)闘死(とうし)ス。

大正十一年三月建  鎌倉町青年團



畠山(はたけやま)六郎(ろくろう)重保(しげやす)重忠(しげただ)嫡男(ちゃくなん)。彼は北條(ほうじょう)政範(まさのり)とともに京都に使しました。実朝(さねとも)の夫人となるべき人、坊門(ぼうもん)中納言(ちゅうなごん)(むすめ)清子(きよこ)の許へ。坊門(ぼうもん)藤原(ふじわら)()の支族の姓。清子(きよこ)実朝(さねとも)夫人となる。姉は()鳥羽(とば)上皇(じょうこう)女御(にょうご))。畠山(はたけやま)重保(しげやす)北條(ほうじょう)政範(まさのり)清子(きよこ)の鎌倉下向(げこう)の案内と警備のために上洛(じょうらく)しました。宿舎は平賀(ひらが)朝雅(ともまさ)(てい)。結婚の準備のために出張しました。3人は酒宴を開き、そこで朝雅(ともまさ)重保(しげやす)は口論をする。鎌倉への帰途、政範(まさのり)は急病で死ぬ。政範(まさのり)の母、(まき)(かた)悲嘆(ひたん)にくれる。政範(まさのり)時政(ときまさ)(まき)(かた)との間に生まれた(まき)(かた)鍾愛(しょうあい)(愛をあつめる)の男子であり、朝雅(ともまさ)(まき)(かた)のむすめの夫。(まき)(かた)は深く六郎(ろくろう)重保(しげやす)(うら)み、夫の時政(ときまさ)をそそのかして、重保(しげやす)謀殺(ぼうさつ)する。その惨劇(さんげき)由比(ゆい)(はま)で行われた。重保(しげやす)(てい)のすぐそばである。それとは知らず、(おめ)しに(おう)じて(ちち)重忠(しげただ)武蔵(むさし)の国から鎌倉にむかう。時政(ときまさ)嫡男(ちゃくなん)義時(よしとき)()てと命ずる。義時(よしとき)は長年苦楽をともにした戦友を()てないと一旦は断るが、(まき)(かた)の言葉を拒むこともできず、討伐にむかい鶴ヶ峰(つるがみね)二俣川(ふたまたがわ)重忠(しげただ)以下(いか)134人を殺害、ここに畠山(はたけやま)()は滅亡しました。北條(ほうじょう)()は次々と有力御家人を打ち倒して政権を手に入れたのです。(かつ)て=以前(いぜん)忿争(ふんそう)(おこ)(あらそ)う。余怨(よえん)=うらみが()れぬさま。(ざん)ス=ざん(げん)した。()ミ=(にく)みきらう。事ニ()リテ=何かきっかけをつかんで。(すなわち)= さてそこで、そして、ややしばらくしてから。


〔参考〕

重忠の長男で六郎重保と称した、元久元年(1204)十月、実朝の御台所を迎えるため京都にのぼった時、平賀朝雅と争いをし、のちに事件があった。その後、朝雅や、牧の方、北條時政が畠山氏を快しとしなくなったことは想像でききます。


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