畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ、甞テ北條時政ノ婿、平賀朝雅ト忿争ス。朝雅其ノ餘怨ヲ蓄ヘ、重保父子ヲ時政ニ讒ス。時政モト重忠ガ頼朝ノ薨後其ノ遺言ニ依リ、頼家ヲ保護スルヲ見テ之ヲ忌ミ、事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス。乃チ實朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ圍ム。重保奮闘之ニ死ス、時ニ元久二年六月二十二日。此ノ地即チ其ノ邸址ナリ、其ノ翌、重忠亦偽リ誘ハレテ武蔵國二俣川ニ闘死ス。
大正十一年三月建 鎌倉町青年團
畠山六郎重保は重忠の嫡男。彼は北條政範とともに京都に使しました。実朝の夫人となるべき人、坊門中納言の女、清子の許へ。坊門は藤原氏の支族の姓。清子(実朝夫人となる。姉は後鳥羽上皇の女御)。畠山重保と北條政範は清子の鎌倉下向の案内と警備のために上洛しました。宿舎は平賀朝雅邸。結婚の準備のために出張しました。3人は酒宴を開き、そこで朝雅と重保は口論をする。鎌倉への帰途、政範は急病で死ぬ。政範の母、牧の方は悲嘆にくれる。政範は時政と牧の方との間に生まれた牧の方鍾愛(愛をあつめる)の男子であり、朝雅は牧の方のむすめの夫。牧の方は深く六郎重保を恨み、夫の時政をそそのかして、重保を謀殺する。その惨劇は由比が浜で行われた。重保邸のすぐそばである。それとは知らず、召しに応じて父重忠は武蔵の国から鎌倉にむかう。時政は嫡男義時に討てと命ずる。義時は長年苦楽をともにした戦友を討てないと一旦は断るが、牧の方の言葉を拒むこともできず、討伐にむかい鶴ヶ峰の二俣川で重忠以下134人を殺害、ここに畠山氏は滅亡しました。北條氏は次々と有力御家人を打ち倒して政権を手に入れたのです。嘗て=以前。忿争=怒り争う。余怨=うらみが晴れぬさま。讒ス=ざん言した。忌ミ=憎みきらう。事ニ依リテ=何かきっかけをつかんで。乃= さてそこで、そして、ややしばらくしてから。
〔参考〕
重忠の長男で六郎重保と称した、元久元年(1204)十月、実朝の御台所を迎えるため京都にのぼった時、平賀朝雅と争いをし、のちに事件があった。その後、朝雅や、牧の方、北條時政が畠山氏を快しとしなくなったことは想像でききます。